地図上のすべての場所を順番に、使徒言行録の聖句とともに。
アンテオケの教会が、バルナバとサウロを送り出す。
一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。
オロンテス川の河口にある、アンテオケの港。
ふたりは聖霊に送り出されて、セルキヤにくだり、そこから舟でクプロに渡った。
クプロの東海岸にあるユダヤ人の諸会堂で宣べ伝える。
そしてサラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言を宣べはじめた。彼らはヨハネを助け手として連れていた。
総督セルギオ・パウロが信じる。ここで使徒行伝は初めてサウロを「パウロ」と呼ぶ。
サウロ、またの名はパウロ、は聖霊に満たされ、彼をにらみつけて
ヨハネ・マルコが一行から身を引いて、エルサレムに帰る。
パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。
タウルス山脈を越えて高原へ。パウロの記録に残る最初の説教。
しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。
多くの人が信じるが、町は分裂し、二人は逃れる。
ふたりは、イコニオムでも同じようにユダヤ人の会堂にはいって語った結果、ユダヤ人やギリシヤ人が大ぜい信じた。
足のきかない人が歩く。群衆は二人を神々と呼び、のちにパウロを石で打つ。
ところが、あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押しかけてきて、群衆を仲間に引き入れたうえ、パウロを石で打ち、死んでしまったと思って、彼を町の外に引きずり出した。
最も遠い町。場所は確かではなく、この印は最もよく挙げられる丘のもの。
その町で福音を伝えて、大ぜいの人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、
来た道を引き返し、新しい弟子たちを力づける。
その町で福音を伝えて、大ぜいの人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、
その町で福音を伝えて、大ぜいの人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、
教会ごとに長老たちを任命する。
また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。
ペルガで御言を語った後、アタリヤにくだり、
ペルガで御言を語った後、アタリヤにくだり、
神が「信仰の門を異邦人に開いて下さった」ことを教会に報告する。
彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいてして下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを、報告した。
パウロとバルナバが別れ、パウロはシラスを選ぶ。
パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。
使徒行伝は「シリヤ、キリキヤの地方をとおって」(15:41)としか言わない。私たちの線は、パウロの故郷タルソを通るローマの道路を取り、タウルス山脈を越える。
それから、彼はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、
テモテが一行に加わる。
それから、彼はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、
それから彼らは通る町々で、エルサレムの使徒たちや長老たちの取り決めた事項を守るようにと、人々にそれを渡した。
使徒行伝はここで町ではなく地方の名を挙げ、聖霊がアジヤに入ることを禁じたと述べる。私たちの線はピシデヤのアンテオケを通る。
それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。
ビテニヤにも入れず、海岸へ下る。夜の幻:「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」。
ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。
そこで、わたしたちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
そこで、わたしたちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
ルデヤが信じる。パウロとシラスは打たれて投獄され、真夜中に賛美を歌う。
ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。
一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。
一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。
会堂で三つの安息日を過ごし、そのあと暴動が起こる。
パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、
ベレヤの人々は、日々聖書を調べる。
ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
パウロはアレオパゴスで語る。使徒行伝は、彼が「海べまで」行かされたと述べる(17:14)。海路で渡るというのは、私たちの読み方である。
そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。 「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。
一年六か月。アカヤの総督ガリオが、彼に対する訴えを聞く。
パウロは一年六か月の間ここに腰をすえて、神の言を彼らの間に教えつづけた。
コリントの東の港。パウロは誓願のために髪をそる。
さてパウロは、なお幾日ものあいだ滞在した後、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向け出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは、かねてから、ある誓願を立てていたので、ケンクレヤで頭をそった。
短い滞在。「神のみこころなら」また来ると約束する。
一行がエペソに着くと、パウロはふたりをそこに残しておき、自分だけ会堂にはいって、ユダヤ人たちと論じた。
それから、カイザリヤで上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてから、アンテオケに下って行った。
使徒行伝は、彼が「エルサレムに上り、教会にあいさつして」と述べる。多くの人は、これをエルサレムのことと読む。
それから、カイザリヤで上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてから、アンテオケに下って行った。
使徒行伝は、アンテオケへどう下ったかを述べていない。私たちの線は海岸の道を取る。
それから、カイザリヤで上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてから、アンテオケに下って行った。
アンテオケで「しばらく」過ごしたのち、再び出発する。
そこにしばらくいてから、彼はまた出かけ、ガラテヤおよびフルギヤの地方を歴訪して、すべての弟子たちを力づけた。
使徒行伝は、彼が「ガラテヤおよびフルギヤの地方を歴訪して、すべての弟子たちを力づけた」と述べる。私たちの線は、第一回の旅の教会々を訪ねる。
そこにしばらくいてから、彼はまた出かけ、ガラテヤおよびフルギヤの地方を歴訪して、すべての弟子たちを力づけた。
二年三か月。会堂、続いてツラノの講堂、そして劇場での暴動。
それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。
使徒行伝は、彼がマケドニヤへ向かって出発したとしか言わない(20:1)。パウロ自身の手紙は、トロアスが道筋にあったことを示す。そこへどう行ったかは述べられていない。
さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、
使徒行伝は地方の名を挙げる。私たちの線はネアポリスに上陸し、ピリピへ上る。
騒ぎがやんだ後、パウロは弟子たちを呼び集めて激励を与えた上、別れのあいさつを述べ、マケドニヤへ向かって出発した。
「ギリシヤ」で三か月。多くの人は、これをコリントと読み、パウロはそこでローマ人への手紙を書いた。
彼はそこで三か月を過ごした。それからシリヤへ向かって、船出しようとしていた矢先、彼に対するユダヤ人の陰謀が起ったので、マケドニヤを経由して帰ることに決した。
パウロを陥れる陰謀があったため、マケドニヤを通って引き返します。種入れぬパンの祭の日々が過ぎてから船出します。
わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。
7日間滞在。パウロの長い話のあいだに、ユテコが窓から落ちます。
わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。
パウロは徒歩で陸路を行き、ほかの人たちは船で回ります。
さて、わたしたちは先に舟に乗り込み、アソスへ向かって出帆した。そこからパウロを舟に乗せて行くことにしていた。彼だけは陸路をとることに決めていたからである。
パウロがアソスで、わたしたちと落ち合った時、わたしたちは彼を舟に乗せてミテレネに行った。
そこから出帆して、翌日キヨスの沖合にいたり、次の日にサモスに寄り、その翌日ミレトに着いた。
そこから出帆して、翌日キヨスの沖合にいたり、次の日にサモスに寄り、その翌日ミレトに着いた。
エペソの長老たちを呼んで別れを告げます。「あなたがたの全部は、もはやわたしの顔を見ることがあるまい」。
そこでパウロは、ミレトからエペソに使をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
さて、わたしたちは人々と別れて船出してから、コスに直航し、次の日はロドスに、そこからパタラに着いた。
さて、わたしたちは人々と別れて船出してから、コスに直航し、次の日はロドスに、そこからパタラに着いた。
ここで、フェニキヤへ渡る船に乗り換えます。
ここでピニケ行きの舟を見つけたので、それに乗り込んで出帆した。
7日間滞在。キプロスを左に見て通り過ぎます。弟子たちは、エルサレムに上らないようにとパウロに言います。
わたしたちは、弟子たちを捜し出して、そこに七日間泊まった。ところが彼らは、御霊の示しを受けて、エルサレムには上って行かないようにと、しきりにパウロに注意した。
わたしたちは、ツロからの航行を終ってトレマイに着き、そこの兄弟たちにあいさつをし、彼らのところに一日滞在した。
ピリポの家に泊まります。アガボがパウロの帯で自分の手足を縛ります。
そして、わたしたちのところにきて、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」。
兄弟たちは喜んで迎えます。数日後、パウロは神殿で捕らえられます。
わたしたちがエルサレムに到着すると、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。
ここで2年間、囚人として過ごします。皇帝に上訴し、囚人として船出します。
さて、わたしたちが、舟でイタリヤに行くことが決まった時、パウロとそのほか数人の囚人とは、近衛隊の百卒長ユリアスに託された。
次の日、シドンに入港したが、ユリアスは、パウロを親切に取り扱い、友人をおとずれてかんたいを受けることを、許した。
風に逆らってキプロスの陰を航行し、アレキサンドリヤの穀物船に乗り換えます。
キリキヤとパンフリヤの沖を過ぎて、ルキヤのミラに入港した。
「幾日かのろのろ航海をつづけ、やっとのことで着いた」。
幾日ものあいだ、舟の進みがおそくて、わたしたちは、かろうじてクニドの沖合にきたが、風がわたしたちの行く手をはばむので、サルモネの沖、クレテの島かげを航行し、
幾日ものあいだ、舟の進みがおそくて、わたしたちは、かろうじてクニドの沖合にきたが、風がわたしたちの行く手をはばむので、サルモネの沖、クレテの島かげを航行し、
パウロは、先へ進まないようにと警告します。「断食の期節もすでに過ぎていた」。季節は秋です。
その岸に沿って進み、かろうじて「良き港」と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。
ユーラクロンと呼ばれる暴風が船をとらえます。
それから、クラウダという小島の陰に、はいり込んだので、わたしたちは、やっとのことで小舟を処置することができ、
船は難破し、276人全員が陸に着きます。島で3か月を過ごします。
わたしたちが、こうして救われてからわかったが、これはマルタと呼ばれる島であった。
港で3日間。
そして、シラクサに寄港して三日のあいだ停泊し、
そこから進んでレギオンに行った。それから一日おいて、南風が吹いてきたのに乗じ、ふつか目にポテオリに着いた。
兄弟たちが、7日間とどまるようにと願います。
そこから進んでレギオンに行った。それから一日おいて、南風が吹いてきたのに乗じ、ふつか目にポテオリに着いた。
ローマの信者たちが、アッピア街道を出てパウロを迎えに来ます。
ところが、兄弟たちは、わたしたちのことを聞いて、アピオ・ポロおよびトレス・タベルネまで出迎えてくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し勇み立った。
「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気を得た」。
ところが、兄弟たちは、わたしたちのことを聞いて、アピオ・ポロおよびトレス・タベルネまで出迎えてくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し勇み立った。
自分で借りた家に丸2年間住み、「大胆に、少しも妨げられることなく」宣べ伝えます。
わたしたちがローマに着いた後、パウロは、ひとりの番兵をつけられ、ひとりで住むことを許された。
これは、ローマとエルサレムの間の陸と海で、幅は約2,300キロあり、測量された高さをもとに作られています。現代の国境も道路も町も描かれていません。パウロの四つの旅のうち一つを選び、使徒行伝が名前を挙げる順に、各地をたどってください。それぞれの場所では、パウロがそこにいたことを示す節が{bible}で表示され、そこへ来た行程も示されます。ローマの道路や海を渡ってどれだけの距離か、また使徒行伝がそれを記している場合は、どれだけかかったかです。
私たちの線に沿って合計すると、四つの旅は陸路で約7,180キロ(4,460マイル)、海路で約7,890キロ(4,900マイル)、合わせて約9,400マイルになります。ただし線は私たちが引いたもので、パウロの足跡そのものではありません。使徒行伝は町の名は挙げても、その間の道は挙げず、パウロがほかの場所で過ごした多くの年月についても何も語りません。
山は実際の5倍の高さで描いています。パウロが越えた山脈が見えるようにするためで、地図の隅の注記にもそう記してあります。
各地の節とパウロの手紙の言葉は聖書で、{bible}によります。各町のあった場所はOpenBible.infoとPleiadesから、ローマの道路が通っていた場所はItiner-eの地図から、パウロのコリント滞在の時期はデルポイのガリオの碑文からとっています。それ以外はすべて私たち自身の作業です。名前の挙がった場所と場所の間の道を選び、すべての海路を描き、その距離を測り、徒歩の日数と各旅の年数を割り出しました。
いくつかの場所は、異論の出うる読み方に基づいており、それぞれの注記にそう記してあります。使徒行伝20章の「ギリシヤ」はコリントのこと、18章の「上り」はエルサレム訪問のことと取り、使徒行伝が挙げる地方を代表する町を選び、手紙の中の一節がどの訪問を思い起こしているかを判断しています。
使徒行伝が名前を挙げる二つの場所の間は、ローマの道路を収めたItiner-e地図の道路に沿って、最短の道をたどりました。Itiner-eは、道筋がどれだけ分かっているかで道路を格付けしています。分かっているものは「確実」、学者が推測したものは「推定」、推測にとどまるものは「仮説」です。小アジア内陸部の道路の大半は推定で、それぞれの場所の説明に、パウロをそこへ連れてきた道のうちどれだけがそれにあたるかが示されています。町が道路網から離れているところでは、町と道路を短い直線でつなぎ、その線も距離に数えています。
海路は私たちが自分で描きました。名前の挙がった場所の間の最短の外洋を取り、海岸から数キロ離れ、使徒行伝が船が通ったとする場所、たとえばクプロを「左手にして」通ったところを通っています。船は直線ではなく風に任せて進んだので、実際の航海は私たちの線より長かったはずです。
陸路では、1日の歩行を20ローマ・マイル、約29.6キロと数えます。ウェゲティウスはローマ軍の手引書で、新兵は通常の行軍の歩調で、夏の5時間でこの距離を進まなければならなかったと述べています(Epitoma rei militaris 1.9)。これは私たちの仮定であり、パウロの記録ではありません。パウロは立ち止まり、説教し、働き、船を待ちました。
海路では、使徒行伝が日数を記すところにだけ日数を示します。トロアスからネアポリスまで二日、帰りは五日、アジヤの海岸をくだる各区間は一日ずつ、嵐の十四夜、レギオンからポテオリまで二日です。使徒行伝が日数を記さないところでは、地図も示しません。
年は、パウロがアカヤの総督ガリオの前に引き出されたコリントから数え始めます(使徒行伝18:12)。紀元52年ごろとされるデルポイの碑文がガリオを総督として名指ししており、そのため多くの学者は、パウロのコリントでの一年半を紀元50–52年ごろとします。そこから、使徒行伝が記す期間を使ってほかの年を数えています。学者の年代は、それらについて一、二年ずつ異なります。
各道路区間の最高地点は、Itiner-eがその道路沿いに記録している標高から取っています。陸地そのものは、ズームレベル7のTerrain Tilesから描いています。約1キロごとの高さが得られるため、谷や峰は実際より滑らかに出ます。
海岸線も、パウロの時代から動いています。エペソとミレトは当時は港でしたが、港は土砂でふさがり、今では海は数キロも離れているので、その海路の線は昔の町まで伸びています。
教会や授業で自由にお使いいただけます。許可なく印刷、投影、配布資料への転載ができます。公開する場合は Christian Pure の名をお書きください。文字での表記で十分です。
立ち寄り地(CSV)区間(CSV)地図の線(GeoJSON)
立ち寄り地の順序、注記、距離、海路の線は Christian Pure が作成し、CC BY 4.0 で公開しています。陸路の線は Itiner-e 地図(CC BY 4.0)に基づきます。地点の座標は OpenBible.info(CC BY 4.0)によるもので、その一部は OpenStreetMap(© OpenStreetMap contributors、ODbL)に由来します。ファイルを再利用する際はこれらの表記を残してください。当サイトへのリンクは任意で、nofollow を付けてもかまいません。
Christian Pure. "Paul's Missionary Journeys: Map and Route Data." Updated November 8, 2026. https://christianpure.com/pauls-missionary-journeys/.
作成:Christian Pure 編集部。最終更新:2026年11月8日。誤りを見つけましたか。お知らせください。訂正記録もご覧ください。