
2025年6月11日、サン・ピエトロ広場での一般謁見を前に、ピックアップトラック型の教皇専用車(パパモービル)の後部から巡礼者に挨拶するレオ14世教皇。 / 写真:Daniel Ibanez/CNA
バチカン市国、2025年6月11日 / 午前5時50分 (CNA)。
レオ14世教皇は水曜日の一般謁見において、信仰、愛徳と並ぶ三つの対神徳の一つである「キリスト教的希望」について説教を行いました。
「神が耳を傾けない叫びなどありません。たとえ私たちが神に呼びかけているという自覚がない時でさえもです」と教皇は述べ、マルコによる福音書に記された、エリコを去るイエスに出会った盲目の物乞いバルティマイの物語を引用してこの考えを説明しました。
レオ教皇は、この物語は「たとえ道を見失ったと感じる時でも、決して希望を捨ててはならない」ということを理解する助けになると説きました。
教皇は本日、イエスが行った癒やしについて語り、カトリック信者に対し、自身の「最も傷つきやすく脆い部分」や、人生において「麻痺している、あるいは行き詰まっている」と感じる部分をキリストの心に委ねるよう招きました。
「信頼をもって主に叫びを聞き入れ、癒やしてくださるよう願い求めましょう!」と教皇は呼びかけました。
教皇は、バルティマイにすぐには近づかず、何を望むのかを問いかけたイエスの態度に焦点を当てました。「私たちが自分の病を本当に癒やされたいと望んでいるのかは、必ずしも明らかではありません。時には、新たな責任を負わないために、今のままの状態にとどまることを選ぶこともあるのです」と教皇は指摘しました。
「盲目の人の前に立って、イエスがすぐに近づかないのは奇妙に思えるかもしれません。しかしよく考えてみれば、これこそがバルティマイの人生を再び動かすための助けなのです。イエスは彼に立ち上がるよう促し、歩む力を彼に委ねられたのです」と教皇は付け加えました。
実際、教皇はバルティマイが単に再び見えるようになることだけを望んでいるのではなく、「自分の尊厳を取り戻すこと」を望んでいるのだと述べました。
「上を向くためには、頭を上げなければなりません。人生で屈辱を味わい、ただ自分の価値を取り戻したいと願う人々は、行き詰まりを感じることがあります」と教皇は語りました。
この理由から、教皇は信者に対し、「たとえ他人があなたを叱り、屈辱を与え、諦めるように言ったとしても」、求めるものを得るためにできる限りのことをするよう呼びかけました。「もし本当にそれを望むなら、叫び続けなさい!」と教皇は述べました。
教皇は、バルティマイを救ったのは信仰であると強調し、「イエスは私たちが自由になるために癒やしてくださるのです」と語りました。

あらゆる脆さをさらけ出し、イエスのもとへ
レオ14世教皇はまた、立ち上がるためにマントを脱ぎ捨てたバルティマイの動作についても考察しました。
「物乞いにとって、マントはすべてです。それは安心であり、家であり、彼を守る保護の手段です。実際、律法は物乞いのマントを保護しており、もし質草として取られたとしても夕方までには返還することを義務付けていました」と教皇は説明しました。
教皇は、物乞いのマントを、人々がしばしばしがみつく「安心という幻想」に例えました。
「私たちを縛り付けているのは、まさにこうした見せかけの安心感であることが多いのです。自分を守るために身にまとっているものが、実際には前進を妨げているのです」と教皇は述べました。
レオ教皇は、イエスのもとへ行き癒やされるために、バルティマイは「自分のあらゆる脆さをさらけ出さなければならなかった」と指摘し、これが癒やしへの道の基本ステップであると説きました。
最後に教皇は、信者に対し、「自分自身の病だけでなく、愛する人々の病」、そして「道を見失い、出口がないと感じている人々の痛み」を信頼をもってイエスのもとへ運ぶよう呼びかけました。
「彼らのためにも叫びましょう。主は必ず私たちの声を聞き、立ち止まってくださると確信しましょう」と教皇は語りました。
https://www.catholicnewsagency.com/news/264669/pope-leo-xiv-there-is-no-cry-that-god-does-not-hear
