D-デイ80周年を記念して、3人の英雄的なチャプレンを偲ぶ




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1944年6月6日、オマハ・ビーチに接近するLCVP上陸用舟艇に乗った米軍突撃部隊。イグナティウス・マテルノウスキー神父(左)は、その運命の日に戦死した。/ 提供:パブリックドメイン/米軍

ナショナル・カトリック・レジスター、2024年6月6日 / 午前5時(CNA)。

1944年6月6日、数万人の連合軍がノルマンディーの海岸に上陸した。80年前のその日、D-デイは第二次世界大戦の大きな転換点となった。

15万6,000人以上の兵士がノルマンディー上陸作戦に参加する中、従軍司祭たちも彼らと共に上陸、あるいは降下した。ここでは、英雄的な勇気を示した3人の司祭を紹介する。

フランシス・サンプソン神父

第501落下傘連隊に所属した「パラシュート・パドレ(空挺司祭)」ことフランシス・サンプソン神父は、運命の6月6日に敵陣の背後に降下した1万5,500人の兵士の一人だった。 

「カトリックか否かを問わず、生け垣の戦い(ヘッジロー・キャンペーン)の恐怖をフランシス・サンプソンほど多く目撃した従軍司祭はおそらくいないだろう」と、イエズス会士ドナルド・クロスビー神父は著書『Battlefield Chaplains: Catholic Priests in World War II』(カンザス大学出版局、1994年)の中で述べている。

サンプソンはすぐに負傷者や瀕死の兵士たちの精神的・肉体的なケアを始めたが、ドイツ軍のSS部隊に捕らえられ、銃殺するために道路へと連行されたと、クロスビーとローレンス・グレイソンはオンライン記事「A Padre in Jump Boots」の中で回想している。

サンプソンはあまりの緊張から、痛悔の祈りではなく「食事の前の祈り」を唱え続けていたという。次にドイツ兵が彼を壁際に立たせ、銃を構えたその時、ドイツ軍将校が彼の従軍司祭の記章に気づいた。将校は部下を制止するために頭上に向けて発砲した。サンプソンがカトリックの司祭であることを名乗ると、将校は敬礼し、軽く会釈をして、制服の内側に留めていたカトリックのメダルを見せ、自分の子供の写真を見るようサンプソンに強く勧めた。

「彼の命を救ったドイツ軍将校は、1、2日以内にドイツ軍の医師を派遣し、アメリカ兵の傷の手当てをさせると約束した」とクロスビーは語った。

その間、サンプソンはアメリカ兵を救っただけでなく、負傷した兵士に自身の血液を提供し、休息なしで働き続けた。彼はノルマンディーでの英雄的行為により、殊勲十字章(DSC)を授与された。

D-デイの後、サンプソンはバルジの戦いで再びドイツ軍に捕らえられ、終戦まで捕虜収容所で病人の世話とミサの司式に尽力した。その後、1967年から1971年まで米陸軍の従軍司祭長を務めた。1998年の映画『プライベート・ライアン』は、D-デイに関連したサンプソンの任務の一つに基づいている。

「従軍司祭団は、人口比で言えば陸軍の全兵科の中で最も多くの勲章を受けた部隊だった」と、10年前のD-デイ70周年に際し、CNAの姉妹ニュースパートナーであるナショナル・カトリック・レジスターのために、『Serving God and Country: United States Military Chaplains in World War II』(バークレー・ブックス、2012年)の著者ライル・ドーセットは指摘した。「それは、前線で命を懸けて他者に奉仕する人々がいたことを意味している」

ジョセフ・レイシー神父

ジョセフ・レイシー神父 は、6月6日にオマハ・ビーチに上陸した3万4,250人の米兵の一人だった。そのわずか1週間前に第5レンジャー大隊に加わったばかりだった。

歴史再現グループ「第5レンジャー再演隊」の会長エド・レーンはこう記している。「D-デイの数日前、レイシー神父がレンジャー部隊に報告した際、レンジャーの指揮官は彼を見て言った。『パドレ(司祭)、あんたは年寄りだし太っている。我々についてくることはできないだろう』。レイシー神父は彼を見てこう答えた。『その心配は無用です。私は自分の務めを果たすだけですから』」

その通り、司祭は務めを果たした。彼はオマハ・ビーチのレンジャー部隊担当区域への最初の上陸用舟艇に乗っていた。 

彼が舟艇から降りた直後に砲弾が直撃した。彼は海から兵士たちを浜辺へと引き上げ、負傷者の手当てをし、終油の秘跡を授けた。

彼が授与されたDSCの感状には、その日、この英雄的な司祭が何をしたかが記されている。そこには、1944年6月6日、この司祭が「先頭の突撃部隊と共に浜辺に上陸した」際の「並外れた英雄的行為」が記述されている。「敵の激しい小銃、迫撃砲、砲撃、ロケット弾の攻撃により、多数の死傷者が出ていた。彼は自身の安全を完全に顧みず、絶えず敵の砲火にさらされながら浜辺を動き回り、負傷した兵士を水際から近くの防波堤の比較的安全な場所まで運び、同時に兵士たちを鼓舞して敵の砲火を恐れないよう勇気づけた。レイシー従軍司祭の英雄的かつ不屈の行動は、軍の最も崇高な伝統に沿うものである」

レイシーと共に上陸したレンジャーの半数近くが死傷したが、彼らは敵の防衛線を突破した最初の部隊となった。D-デイの後、彼らの従軍司祭はフランスまで彼らと行動を共にし、1960年代には、モンシニョール(教皇名誉高位聖職者)となったレイシーは、ヘンリー・オブライエン大司教の指導の下、コネチカット州ハートフォード大司教区の総代理を務めた。

イグナティウス・マテルノウスキー神父

D-デイの甚大な犠牲の中で、戦死した唯一の米軍従軍司祭は、フランシスコ会のイグナティウス・マテルノウスキー神父だった。32歳の修道士である彼は、第82空挺師団と共にパラシュートで降下した。

ドーセットは、共に従軍した人々から聞いたこの司祭の描写を回想した。「ある兵士は、彼はタフでエネルギッシュなポーランド人で、連隊の兵士たちから非常に慕われていたと語った」と彼は以前レジスターに語った。「彼は男の中の男だった。従軍司祭は戦闘が行われる前線に行く必要はなかったが、彼らは後方に留まることを拒んだ。彼らは前線へと向かったのだ」

彼は「兵士たちが卑猥な冗談を言ったり、粗野な言葉を使ったり、主の名をみだりに唱えたりするのを面白がってはいなかった。教会や告解について何か言う者がいれば、『ボクシンググローブをはめろ』と何度も言っていた」

米陸軍大尉であったマテルノウスキーは、第82空挺師団第508落下傘歩兵連隊の空挺兵だった。連隊のウェブサイトによると、空挺兵たちはピコヴィルという小さな村の近くに着陸し、そこにあった唯一の店である食料品店が、負傷した空挺兵のための臨時の救護所に変えられた。

そこがすぐに満員になり、さらに負傷者が運ばれてくるのを見て、マテルノウスキーは、負傷者全員を広い場所に集める交渉をするため、ドイツ軍の主任衛生兵と会うという危険な行動に出た。ジャケットに宗教的な従軍司祭の記章を付け、赤十字の腕章を巻いた彼は、ヘルメットを脱ぎ、恐れることなくドイツ軍の防衛線へと歩いていった。

驚くべきことに、彼は同じドイツ軍の衛生兵を連れて臨時の救護所に戻り、状況を見せた。その後、彼はドイツ軍の将校と共にドイツ軍の防衛線に戻ったに違いない。なぜなら、彼が一人でアメリカ軍の防衛線に戻る途中、近くの家からナチスの狙撃兵に背中を撃たれたからである。

彼は道路に倒れ込み、その遺体はピコヴィルの一部であるゲトヴィルの集落で3日間放置された。ドイツ軍は誰も遺体を回収させなかった。第90歩兵師団の兵士たちが到着して初めて、遺体を回収することができた。ゲトヴィルには、この従軍司祭の勇気ある行動を伝える記念碑が建てられている。1948年、マテルノウスキーの遺骨はアメリカに返還され、マサチューセッツ州サウスハドリーのフランシスコ会修道士墓地に埋葬された。彼の墓石には「これより大きな愛はない」という言葉が刻まれている。

米国軍事司牧区のティモシー・ブロリオ大司教は、前回のD-デイ記念式典において、マテルノウスキーをあらゆる従軍司祭の模範として挙げ、次のように述べた。「マテルノウスキー神父の英雄的な犠牲は、大きな悪や逆境に直面しても実践されるキリスト教的愛の傑出した模範である」

この記事は 元はナショナル・カトリック・レジスターによって発行, (CNAの姉妹ニュースパートナー)2019年6月6日。CNAによって更新・改編された。

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