神に関する聖書の言葉27選



  • 出エジプト記34章6-7節で、神はご自身の名をモーセに対して、慈悲深く、恵み深く、怒るのに遅く、豊かな愛と真実を持つ方であると宣言されました。民数記14章18節、詩篇103篇8節、ヨエル書2章13節、ヨナ書4章2節でも、その記述の一部が繰り返されています。
  • イエスは、ある律法学者がどの戒めが最も重要かと尋ねた際、申命記6章4節の「主は唯一である」という言葉を引用されました(マルコ12:28-30)。
  • エレミヤはエルサレム包囲中に監視下で「あなたにとって不可能なことは何一つありません」と祈り、神は「わたしにとって不可能なことがあろうか」と答えられました。
  • 神は偽ることも心を変えることもないという民数記23章19節の言葉は、イスラエルを呪うために連れてこられたバラムによって語られました。
  • ローマの信徒への手紙3章26節には、神がキリストを立てられたのは、ご自身が「義であり、イエスを信じる者を義とする」ためであると記されています。

聖書は、神は唯一であり、聖であり、霊であり、愛であり、万物の創造主であり支配者であり、その言葉に忠実で、どこにでも存在し、正しくかつ慈悲深い方であると述べています。モーセに対して神はご自身を「慈悲深く、恵み深く、怒るのに遅く、豊かな愛と真実を持つ者」(出エジプト記34:6)と呼んでいます。

モーセはイスラエルに「主は唯一である」(申命記6:4)と語り、セラフィムは「聖なる、聖なる、聖なる」と呼び(イザヤ6:3)、イエスは「神は霊である」(ヨハネ4:24)と言い、ヨハネは「神は愛である」(ヨハネの手紙一 4:8)と記しています。エレミヤは天と地の創造主に祈り(エレミヤ32:17)、バラムは「神は人間ではないので、偽ることはない」(民数記23:19)と言い、ダビデは神の御前からどこへ逃れられるかと問い(詩篇139:7-10)、パウロは神がキリストを立てられたのは「ご自身が義であり、イエスを信じる者を義とするためである」と述べています(ローマ3:26)。

神の命名と記述

出エジプト記 34:6-7

「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、慈悲深く、恵み深く、怒るのに遅く、豊かな愛と真実を持つ神。何千代にもわたって愛を保ち、咎と背きと罪を赦す者。しかし、罪ある者を決して罰せずにはおかない。父の咎を子に、孫に、三代、四代にまで報いる者。』」

考察: モーセが「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(出エジプト記33:18)と求めたとき、神はご自身の名を彼の前で宣言すると答えられました。これがその宣言であり、慈悲と裁きが共存しています。神は「咎と背きと罪」を赦される一方で、「罪ある者を決して罰せずにはおかない」のです。後の書物でもその一部が繰り返されています。民数記14章18節は「怒るのに遅く、豊かな愛を持つ」という警告を伴う記述を取り上げ、詩篇103篇8節とヨエル書2章13節は「慈悲深く」「恵み深く」「怒るのに遅く」「豊かな愛を持つ」を繰り返し、ヨナはタルシシュへ逃げた理由として、神に対して同じ記述を引用しています(ヨナ4:2)。

Deuteronomy 6:4

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」

考察: モーセはこれらの言葉をイスラエルに向け、次の節では直ちに「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」主を愛せよという命令が続きます。ある律法学者がイエスに「すべての戒めの中でどれが最も重要か」と尋ねたとき、イエスはこの節と次の節を引用して答えられました(マルコ12:28-30)。

イザヤ書 6:3

「そして互いに呼びかわして言った。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。』」

考察: イザヤは、ウジヤ王が死んだ年にこの幻を見て、玉座におられる主と、その衣の裾が神殿を満たしている様子、そしてセラフィムが互いに呼び交わす声を聞きました。三度繰り返される「聖なる」という言葉は、全地が神の栄光で満ちているという主張と結びついています。イザヤの反応は恐れでした。「災いだ。私は滅びてしまう。私は唇の汚れた者だからだ」(イザヤ6:5)。ヨハネの黙示録4章8節では、四つの生き物が「聖なる、聖なる、聖なる、全能者である主なる神」と叫びを繰り返しています。

ヨハネによる福音書4章24節

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

考察: イエスは、礼拝の場所について論争を起こしたサマリア人の女にこう言われました。「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたはエルサレムこそ礼拝すべき場所だと言います」(ヨハネ4:20)。イエスはすでに彼女に、父を礼拝する時が来ており、それは「この山でも、エルサレムでもない」(4:21)と告げておられました。同じ文脈で、イエスは「神は霊である」という言葉を、神を礼拝する者は「霊と真理をもって礼拝しなければならない」という要件と結びつけています。

ヨハネの手紙一 4章8節

「愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。」

考察: ヨハネは「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るからです」(ヨハネの手紙一 4:7)という呼びかけの中でこれを記しています。続く二つの節では、神が「私たちの罪を償う供え物」として「独り子を世に遣わされた」ことによって、その愛が示されたと述べています。ヨハネは16節で再び「神は愛である」と繰り返し、同じ手紙の冒頭では「神は光であり、神には暗いところが全くない」と記しています(ヨハネの手紙一 1:5)。

万物の創造主であり支配者

エレミヤ書 32:17

「ああ、主なる神よ。あなたは、大いなる力と伸ばした腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは何もありません。」

考察: エレミヤは、バビロニア軍がエルサレムを包囲する中、「衛兵の庭に閉じ込められていた」時にこれを祈りました(エレミヤ32:2)。神は彼にアナトトにある従兄弟ハナメルの畑を買うように命じられ、祈りは創造の賛美から始まりますが、やがて「都がカルデア人の手に渡されている」のに土地を買うように言われたことへの戸惑いに至ります(32:25)。神の答えは彼の言葉を取り上げています。「見よ、わたしは主、すべての肉なる者の神である。わたしにとって不可能なことがあろうか」(32:27)。

コロサイ人への手紙 1:16-17

「万物は御子によって創造されたからです。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、すべては御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物よりも先にあり、万物は御子によって成り立っています。」

考察: 「御子」とは神の「愛する御子」(コロサイ1:13)であり、15節では「見えない神の姿」と呼ばれています。パウロは、王座や権威を含め、すべてが御子によって、また御子のために造られ、「万物は御子によって成り立っている」と述べています。18節では、御子を教会の頭であり「死者の中の初穂」と呼んでいます。

詩篇 103:19

「主は天に御座を固く立て、その御国は万物を統治している。」

考察: 「ダビデの詩」と題された詩篇103篇は、ダビデが自分の魂に主をほめたたえ、「主の恵みを何一つ忘れてはならない」と語りかけるところから始まります。19節は、神の玉座が天にあり、その王国が「すべてを支配している」と述べています。結びの節では、天使たち、すべての軍勢、そして「神の支配するすべての場所にあるすべての造られたもの」に、同じく主をほめたたえるよう呼びかけています。

箴言 19:21

「人の心には多くの計画がある。しかし、主の計画だけが実現する。」

考察: この格言は物語の背景なしに単独で存在します。人の心にある多くの計画と主の目的を並べ、どちらが成就するかを述べています。

詩篇 147:5

「私たちの主は偉大で、力に満ち、その知恵は計り知れません。」

考察: その前の節では、神が「星の数を数え」「それらすべてに名を付けられる」と述べています。5節では神ご自身について、偉大で「力に満ち」、その知性は「計り知れない」と語っています。次の節では、その力が人々に向けられます。「主は謙遜な者を高く上げ、悪しき者を地に投げ落とされる。」

人間の理解を超えた存在

イザヤ書 55:8-9

「主は言われる。わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い。」

考察: これらの節は、「主を尋ね求めよ、見出せる間に」(イザヤ55:6)という呼びかけと、立ち返る悪しき者を神が「豊かに赦される」という約束に続いています(イザヤ55:6-7)。より高い神の思いと道は、その赦しの約束の根拠として「なぜなら」という言葉で導入されています。10節と11節では、神の言葉を地を潤す雨や雪に例えています。

ローマ人への手紙 11:33

「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと計り知れず、神の道はなんと追跡しがたいことでしょう。」

考察: パウロはイスラエルと異邦人に関する議論の最後に、この賛美を差し挟みます。「神はすべての人を不従順のままに閉じ込められた。すべての人を憐れむためである」(ローマ11:32)と記した直後のことです。彼は続けて、誰が主の心を知り、誰が主の助言者となったかと問い、こう締めくくります。「万物は神から出て、神によって成り、神に至るのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン。」(ローマ11:36)。

コリント人への第一の手紙 1:25

「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

考察: パウロは「十字架につけられたキリスト、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(コリント人への手紙一 1:23)という宣教について記しています。彼が神に帰する愚かさと弱さとは、他者の目から見た十字架のことであり、24節では十字架につけられたキリストを「神の力、神の知恵」と呼んでいます。

御子に示された神の愛

ヨハネによる福音書3章16節

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

考察: ESV訳において、これらの言葉は、夜にイエスのもとを訪れた「ユダヤ人の指導者」ニコデモとの対話の一部です(ヨハネの福音書 3:1-2)。神の世に対する愛は、神が「ひとり子」を与えたことによって測られます。続く節にはその目的が記されています。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

ローマ人への手紙 5章8節

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

考察: パウロは2節前に、「ちょうどよい時に、キリストは不敬虔な者のために死んでくださった」(ローマ人への手紙 5:6)と記しており、その間には、人は正しい人のためであっても死ぬことはめったにない、と述べています。パウロはそれに対比させて神の愛を説いています。キリストは「私たちがまだ罪人であったとき」に、私たちのために死んでくださったのです。

偽ることなく、変わることのない神

民数記 23:19

「神は人間ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることもない。主は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを、果たされないだろうか。」

考察: 語り手は、イスラエルを呪うためにモアブの王バラクによって連れてこられたバラムです。バラクは「私を連れてきたのは私の敵を呪うためだったのに、見よ、あなたは彼らを祝福してばかりではないか」(民数記 23:11)と不満を漏らしており、この託宣はバラムの答えです。バラムは、神がイスラエルを祝福されたのであり、「私にはそれを覆すことはできない」(23:20)と述べています。

マラキ書 3:6

「わたしは主であり、変わることがない。だから、ヤコブの子らよ、お前たちは滅びることはない。」

考察: 神はマラキを通して、次の節にあるように「先祖の時代から」神の定めからそれてしまった民に語りかけています。この節自体は、彼らが生き残っているのは神の不変性によるものだと結びつけています。神は変わることがないため、彼らは「滅ぼし尽くされる」ことがないのです。続く7節で、「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」という申し出がなされます。

ヤコブの手紙 1:17

「すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであり、光の父から下って来るのです。父には、移ろいや変化の影が全くありません。」

考察: 数節前でヤコブは、神が人を誘惑するという考えを否定しています。「神は悪に誘惑されることはなく、ご自身でだれを誘惑することもありません」(ヤコブの手紙 1:13)。良い贈り物、完全な贈り物は「光の父」から来るものであり、父には「移り変わりや、変化による影」がありません。18節はこう続きます。「父はみこころのままに、真理の言葉によって私たちを生んでくださいました。」

哀歌 3:22-23

「主の変わらぬ愛は決して絶えることがなく、その憐れみは尽きることがない。それは毎朝新しく、あなたの誠実は大きい。」

考察: 第3章は「神の憤りの杖によって苦しみを見た者」(哀歌 3:1)によって語られています。「苦よもぎと毒」を思い起こした後、彼は「このことを私は心に留める。それゆえ、私には望みがある」と述べ、彼が心に留めるのは神の変わらぬ愛と憐れみです。言葉は主について語ることから、主に向かって語りかけることへと変わります。「あなたの真実は大きい。」

テモテへの手紙二 2章13節

「私たちは真実でなくても、彼は真実であり続ける。彼はご自身を否むことができないからである。」

考察: パウロは「この言葉は真実である」(テモテへの手紙二 2:11)という言葉でこの一節を導入しており、そこにはキリストと共に死ぬことと生きること、耐え忍ぶことと支配すること、否むことと否まれることが対になって記されています。最後の対句はパターンを破っています。私たちが真実でなくても「彼は真実であり続ける」のであり、その理由は「彼はご自身を否むことができないからである」とされています。

どこにでも存在し、民の近くにおられる方

詩編 139編7-10節

「私はどこへ行って、あなたの霊から離れることができようか。どこへ逃れて、あなたの御顔を避けられようか。私が天に上っても、そこにあなたはおられます。私が陰府に床を設けても、見よ、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」

考察: ダビデの詩篇は「主よ。あなたは私を探り、知っておられます!」で始まります。ここで彼は、神の霊と御前から逃れるためにどこへ行けるだろうかと問いかけ、天も、陰府も、「海の果て」もすべて同じ答えを返します。神はそこにいて、神の御手が導き、支えておられるのです。続く2節では、闇でさえ神から隠すことはできないと付け加えられています。「闇もあなたにとっては暗くはありません。」

エレミヤ書 23:23-24

「『わたしは近くにいる神であり、遠くにいる神ではないのか』と主は言われる。『人が隠れ場所に隠れても、わたしがそれを見ないことがあろうか』と主は言われる。『わたしは天と地を満たしているではないか』と主は言われる。」

考察: エレミヤ書23章は、群れを散らす羊飼いに対する災いの宣告で始まり(23:1)、9節からは「主の口からではなく、自分自身の心から出た幻を語る」預言者たちに向けた言葉に変わります(23:16)。神はその非難の途中でこれらの問いを投げかけています。続く節はこう続きます。「わたしは、わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが言ったことを聞いた。」

詩篇 46:1

「神はわたしたちの避難所、わたしたちの力。苦難のとき、必ずそこにいて助けてくださる。」

考察: 詩篇46篇は、指揮者のために書かれたコラの子らの歌です。避難所であり力である神は、揺れ動く地や荒れ狂う海と対比されており、2節はその結論を導き出しています。「それゆえ、私たちは恐れない。」この詩篇は、神がその民と共に一つの都にいることを示しています。「神はその中におられる。その都は揺るがない」(詩篇 46:5)。そして7節の繰り返しにはこうあります。「万軍の主は私たちとともにおられる。ヤコブの神は私たちの砦である。」

正しく、慈悲深い方

申命記 32:4

「岩なる方、その御業は完全であり、その道はすべて正義である。真実の神、偽りなく、正しく、直き方である。」

考察: モーセはその歌の冒頭で、天と地に耳を傾けるよう呼びかけ、「私は主の御名を宣べ伝えよう。私たちの神に威光を帰せよ!」と宣言します(申命記 32:3)。4節では神を「岩」と呼び、神の御業は完全であり、その道は正義であると述べています。

詩篇 89篇14節

「義と公義はあなたの王座の基盤。恵みと真実はあなたの御前を行く。」

考察: エズラ人エタンの知恵の詩である詩篇89篇は、「代々にわたって」主の真実を知らせるという約束で始まります。14節では、義と公義が神の王座の基であり、変わらぬ愛と真実が神の御前を行くと記されています。変わらぬ愛と真実は、出エジプト記34章6節で神がご自身について用いているのと同じ組み合わせです。

イザヤ書 30:18

「それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待っておられ、あなたがたをあわれもうとして立ち上がられる。主は公平の神であるからだ。すべて主を待ち望む者は幸いである。」

考察: 民は「わたしの指示を求めずに、エジプトへ下って行った」(イザヤ書 30:2)のであり、「立ち返って静かにしていれば、あなたがたは救われたのに」(30:15)という申し出を拒絶しました。18節の「それゆえ」は、その拒絶に続くものです。主は恵みを与えようと待っておられるのです。同じ節でイザヤは神を「公義の神」と呼んでいます。

ローマ人への手紙 3:25-26

「神はこのキリストを、信仰によって受けるべき、血によるなだめの供え物として公に示されました。それは、神の義を示すためです。神は忍耐をもって、以前に犯された罪を見過ごしてこられました。それは、今の時に神の義を示すためであり、神ご自身が義であり、イエスを信じる者を義とされるためです。」

考察: パウロは直前に、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けることができず」、ただ「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」と記しました(ローマ人への手紙 3:23-24)。神は「神の忍耐をもって」過去の罪を見過ごしてこられましたが、パウロは、神がその中でご自身の義を示すためにキリストを立てられたと述べています。それによって神は「義であり、かつイエスを信じる者を義と認める方」となられたのです。

神が語られる言葉と、神に向けられる言葉

神は出エジプト記34:6-7、イザヤ書55:8-9、エレミヤ書23:23-24、マラキ書3:6でご自身について語っておられます。イエスはヨハネの福音書4:24でサマリアの女に対して、またESVの句読法に従えばヨハネの福音書3:16で語っておられます。民数記23:19は、イスラエルを呪うために連れてこられた預言者バラムの言葉です。

エレミヤ書32:17、詩篇89:14、詩篇139:7-10は神に向けられた言葉であり、書かれている通りに祈ることができます。哀歌3:22-23は途中で「あなたの真実は大きい」という祈りに変わります。ローマ人への手紙11:33は、パウロが手紙の中で神について語る形で記した賛美です。




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