聖書には、イエスが父に愛されているように弟子たちを愛していると記されており、彼が愛した他の人々の名も挙げられています。その最初の箇所はヨハネの福音書15章9節です。
イエスは弟子たちを友と呼び、友のために自分の命を捨てること以上に大きな愛はないと言われました(ヨハネ15:13-15)。ヨハネはマルタ、マリア、ラザロ(ヨハネ11:5)と「イエスが愛しておられた弟子」(ヨハネ19:26)の名を挙げ、マルコはイエスが金持ちの青年を愛したが、その青年は悲しんで立ち去ったと記しています(マルコ10:21-22)。パウロはキリストの愛について一人称で書き(ガラテヤ2:20)、イエスは弟子たちが互いに愛し合うための基準として、ご自身の愛を提示されました(ヨハネ13:34)。
イエスがご自身の愛について語られたこと

ヨハネの福音書 15:9
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」
考察: イエスは弟子たちへの愛を、父が自分を愛してくださった愛で測り、一つの指示を与えられました。「わたしの愛にとどまりなさい。」次の節では、どのようにしてその愛にとどまるのかが説明されています。「わたしが父の掟を守ってその愛にとどまっているように、あなたがたもわたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

ヨハネの福音書 15章13節
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていない。」
考察: この言葉にある友とは弟子たちのことであり、イエスは次の節で彼らをそう呼んでいます。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:14)。イエスは彼らを「主人が何をしているか知らない」しもべとは呼ばず、友と呼びました。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:15)。

John 14:21
「わたしの掟を受け入れてそれを守る人は、わたしを愛する人である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、わたし自身をその人に現す。」
考察: イエスはご自身の愛と従順を双方向で結びつけておられます。戒めを守る者はイエスを愛する者であり、イエスはその人を愛し、ご自身を現されます。「イスカリオテではないユダ」が、なぜ世には現さず弟子たちに現すのかと尋ねると、イエスは父と共に「その人のところに行き、一緒に住む」と答えられました(ヨハネ14:22-23)。

ヨハネによる福音書 13章34節
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
考察: 同じ日の夜の早い時間に、イエスは弟子たちの足を洗い、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と語られました(ヨハネ13:15)。ユダが出て行った後(ヨハネ13:30)、イエスは新しい戒めを与え、次の節でそれが何を示すかを語られました。「互いに愛し合いなさい。……あなたがたの間に愛があれば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が知るようになる。」
イエスが愛した人々、そしてイエスが叱責した教会

John 13:1
「過越の祭りの前のことでした。イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られました。世にいる自分の者たちを愛されたイエスは、その愛を最後まで貫かれました。」
考察: ヨハネは最後の晩の出来事をこの一文で書き始めています。この後に続くのは、イエスが弟子たちの足を洗う場面であり(ヨハネ13:4-5)、2節では悪魔がすでにユダの心にイエスを裏切る考えを入れていたことが記されています。

John 11:5
「さて、イエスはマルタとその姉妹、そしてラザロを愛しておられた。」
考察: マリアとマルタはイエスに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」と使いを送りました(ヨハネ11:3)。イエスは、その病気は「神の栄光のため」であると答えられました。次の節では、イエスの愛と彼の行動が結びつけられています。「ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間、同じ所に滞在された。」イエスがラザロの墓の場所を尋ねて涙を流されたとき、居合わせた人々は「見てください。どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました(ヨハネ11:34-36)。

Mark 10:21
「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。『あなたには欠けているものが一つあります。帰って、持っている物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その後、わたしについて来なさい。』」
考察: ある人が駆け寄ってきて、永遠の命を得るために何をすべきかを尋ね、子供のころから戒めを守ってきたと答えました。マルコは、イエスがその人を見つめて愛し、すべてを売って従うように言われたと記しています。その人は「多くの財産を持っていた」ため悲しんで立ち去り、イエスは弟子たちの方を向いて言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(マルコ10:22-23)。

ヨハネの福音書 19:26-27
「イエスは母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『婦人よ、ご覧なさい。これはあなたの子です』と言い、次にその弟子に『ご覧なさい。これはあなたの母です』と言われた。そのときから、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」
考察: ヨハネの福音書は、この弟子を名前を挙げずに「イエスが愛しておられた弟子」と呼んでおり(ヨハネ13:23; 20:2; 21:7, 20)、ヨハネ21章24節では、この弟子こそが「これらのことについて証しをし、それを書き記した者」であると述べています。十字架の上で、イエスはこの弟子に母を託し、弟子は彼女を自分の家に引き取りました。

Revelation 3:19-20
「わたしは愛する者を皆、叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心に努めなさい。悔い改めなさい。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事をし、彼もまたわたしと食事をするであろう。」
考察: 復活されたキリストは、ラオディキアの教会に語りかけておられます。キリストは彼らを「なまぬるい」とし、「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」と呼んだばかりでした(ヨハネの黙示録3:16-17)。キリストは叱責を愛のしるしとして示し、悔い改めを求めておられます。戸をたたくことはその後に続き、約束は、声を聞いて戸を開けるすべての人に向けられています。
書簡と黙示録におけるキリストの愛

ガラテヤ人への手紙 2:20
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を捨てられた神の御子に対する信仰によるのです。」
考察: パウロは単数形で書いています。神の子は「わたしを愛し、わたしのためにご自身を献げられた」。この節は、人は律法を守ることではなく信仰によって義とされるというパウロの議論の中にあり、次の節で結論が導かれています。「もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストは無駄に死なれたことになる!」

コリント人への手紙第二 5章14節
「キリストの愛が私たちを駆り立てているからです。私たちはこう考えました。一人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」
考察: パウロは、使徒としての自分の働きを突き動かすものについて説明しています。次の節では、キリストの死の目的が述べられています。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている者たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活された方のために生きるためである。」

Revelation 1:5-6
「……わたしたちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。」
考察: アジア州の七つの教会へのヨハネの挨拶(ヨハネの黙示録1:4)は、「忠実な証人、死者の中から最初に生まれた方」であるイエス・キリストへの賛美へと変わります。愛は現在形で「わたしたちを愛し」と述べられ、解放は過去形で「その血によって罪から解放してくださった」と記されています。この文は、彼に「世々限りなく」栄光と力があるようにと結ばれています。

エペソ人への手紙 3:17-19
「……こうして、あなたがたが信仰によってキリストを心に住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかりと立つようになりますように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人知をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされますように。」
考察: パウロは、父の御前にひざまずいて何を求めているかを報告しています(エフェソ3:14)。それは、キリストが信仰を通して読者の心に住まわれ、彼らがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、それを知る力を持つことです。

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