聖書は、神に確信を置く人を祝福された者と呼び、人間の力に頼る者と対比させています。エレミヤ書17章5〜8節では、両者を塩地の灌木と川沿いの木に例えています。またパウロは自身の働きについて、「わたしたちの能力は神から出ているのです」(コリントの信徒への手紙二3章5節)と述べています。
詩編27編3節では、軍勢に囲まれても心は「恐れない」とあり、マタイによる福音書6章32節では父なる神が「あなたがたにこれらのものが必要であることをご存じである」と語り、ヘブライ人への手紙11章1節は信仰を「望んでいる事柄に対する確信」と定義しています。また、ヘブライ人への手紙4章16節とヨハネの手紙一5章14節では、この言葉が祈りの中で神に近づくことに対して適用されています。これら二つの節、およびエフェソの信徒への手紙3章12節において、確信を意味するギリシャ語は パレーシア, であり、ストロングの語彙集では大胆さ、確信、率直さ、平易さと解説されています。
人間の力ではなく神を信頼すること

エレミヤ書 17:7-8
「主を信頼し、主を頼みとする人は幸いである。その人は水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を張り、暑さが来ても恐れず、葉は常に青々としている。日照りの年にも心配せず、実を結ぶことをやめない。」
考察: エレミヤはその反対の言葉の直後にこの祝福を置いています。「呪われよ、人に頼り、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れる人は」(17章5節)。その人は「人の住まない塩地」の灌木ですが、主を信頼する人は川沿いに根を張る木であり、「暑さが来ても恐れない」のです。7節では バタハ, という動詞(信頼する)と、 ミブタハ, という名詞(信頼、確信)が使われています。

箴言 3:5-6
「心を尽くして主に信頼せよ。自分の悟りに頼るな。あなたの行くすべての道で主を知れ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
考察: 信頼を意味する動詞は バタハ, であり、エレミヤ書17章7節で使われているものです。主への信頼は「自分の分別」に頼ることと対比されており、7節はさらに「自分の知恵を頼みとするな。主を畏れ、悪を避けよ」と続きます。「すべての道で」主に委ねる者には、まっすぐな道が約束されています。

2 Corinthians 3:4-5
「私たちはキリストによって、神に対してこのような確信を抱いています。何かを自分の力で成し遂げたかのように考える資格が私たち自身にあるのではありません。私たちの能力は神から出ているのです。」
考察: パウロはコリントの教会に対して「推薦状」が必要かと問い(3章1節)、教会そのものが彼の推薦状であり、「墨ではなく生ける神の霊によって書かれた」ものであると答えました(3章3節)。そして彼は、自分の確信がどこから来るのかを述べています。「キリストを通して神に対して」抱くものであり、自分自身には誇るべき能力などないというのです。ギリシャ語の名詞 ペポイテーシス, は、信頼や依り頼みを意味します。

コリント人への手紙第二 12:9-10
「しかし、彼はこう言われました。『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのうちに完全に現れるからである。』ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから、私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
考察: パウロは「肉体に与えられた棘」を取り除いてほしいと三度願い(12章7〜8節)、その答えとしてこの言葉を記録しました。彼がその棘が何であったかを明かすことはありませんでしたが、7節にはそれが「高慢にならないように」与えられたとあります。彼の反応は、弱さ、侮辱、苦難、迫害を誇ることでした。そして「わたしは弱いときにこそ強い」という言葉で締めくくっています。
恐れに代わる確信

詩篇 27:1
「主はわたしの光、わたしの救い。だれを恐れることがあろうか。主はわたしの命のとりで。だれを恐れることがあろうか。」
考察: 「ダビデの詩」と題されたこの詩編では、それぞれの問いかけが主の呼び名(光、救い、砦)に続いています。3節では「たとえ軍勢が陣を敷いてわたしを攻めても、わたしの心は恐れない」と確信が明言されています。詩編の終わり近くで再びこの言葉に戻り、「わたしは信じる。生ける者の地で主の恵みを見ることを」と述べ、「主を待ち望め」と結ばれています(27章13〜14節)。

イザヤ書 41:10
「恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。たじろいではならない。わたしがあなたの神だからだ。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを支える。」
考察: 主はイスラエルに対し、「わたしの選んだ僕ヤコブ」、「わたしの友アブラハム」の子孫として語りかけます(41章8節)。恐れてはならない理由は、主が共にいるからです。「わたしはあなたと共にいる」。その4節後、同じ人々が「虫けらのようなヤコブ、イスラエルの人々」と呼ばれ、再び「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と告げられます(41章14節)。

ヨシュア記 1:9
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
考察: 神はイスラエルを導くヨシュアに語りかけ(1章6節)、「モーセと共にいたように、あなたと共にいる」と約束されます(1章5節)。強く雄々しくあれという命令は6節から9節の間に3回繰り返され、その中で神は成功の条件として「この律法の書」を守り、「昼も夜も」それを唱えることを挙げています(1章7〜8節)。9節でその理由として挙げられているのは、「どこへ行くにも」主が共にいるということです。

テモテへの手紙二 1章7節
「神は、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊を、わたしたちに下さったのである。」
考察: パウロは主の囚人としてテモテに書き送り(1:8)、「私の按手によって」与えられた「神の賜物を再び燃え立たせる」ようにと彼を励ましたばかりでした(1:6)。続く節では、御霊の力が恥に打ち勝つものとして示されています。「だから、私たちの主のあかしをすることや、主の囚人である私を恥じてはいけません」。パウロは1:12で自身の確信をこう述べています。「私は、自分が信じてきた方をよく知っており、その方は、私にゆだねられたものを、かの日まで守ることができると確信しているからです」。
食べ物、お金、日々の必要に対する確信

マタイによる福音書 6:31-33
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って心配してはいけません。異邦人はみな、これらのものを切に求めているのです。あなたがたの天の父は、これらすべてがあなたがたに必要であることを知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
考察: イエスは「天の父が養ってくださる」鳥や、神が装ってくださる花を指し示し、思い悩む者たちを「信仰の薄い者たち」と呼びました(6:26-30)。32節は思い悩む必要がない理由を述べています。父は「あなたがたにこれらのものが必要であることを知っておられる」からです。「神の国とその義」を求めることは思い悩むことに取って代わるものであり、34節は思い煩いを今日という日に限定しています。「苦労は、その日その日に十分である」。

詩篇 23:1
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。」
考察: ダビデの詩篇は、羊飼いが羊のために何をするかを挙げています。緑の牧場、憩いの水、魂の回復、正しい道です。4節で、詩篇は主について語ることをやめ、主に向かって語りかけます。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」。

フィリピ人への手紙 4:13
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
考察: 「これらすべて」は、その前の節を指しています。そこではパウロが「満腹していても、飢えていても、富んでいても、乏しくても」満足することを学んだと述べています(4:12)。彼はエパフロデトが持ってきた贈り物に対してフィリピの人々に感謝を述べつつ(4:10, 4:18)、「乏しいからこう言うのではありません」と語ります。彼が述べる力とは、どのような状況にあっても満足するためのものです。

Hebrews 13:5-6
「金銭を愛する生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい。神は、『わたしは決してあなたを見捨てず、決してあなたを置き去りにしない』と言われたからです。ですから、私たちは確信を持ってこう言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人間が私に何をなしえようか。』」
考察: 著者は満足を「金銭を愛すること」と対比させ、それを「神が言われた」言葉に基づかせています。それは神がヨシュアにも語られた言葉です(ヨシュア1:5、申命記31:6, 8と比較)。「だから私たちは確信をもって言う」という言葉は、詩篇118:6に一致する言葉での応答を導入しています。そこではNIV訳で「主は私の助け手」の代わりに「主は私の味方」とされています。
まだ見ぬ約束に対する確信

ヘブル人への手紙 11:1
「さて、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
考察: この章は定義から始まり、「昔の人たちは、この信仰によって証しを立てたのです」と述べています(11:2)。3節は後半の例、すなわち見えないものに対する確信を挙げています。「信仰によって、私たちは、世界が神の言葉で造られたことを悟るのです」。6節は神に近づく者が信じなければならないことを述べています。「神が存在すること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であること」。

ヘブル人への手紙 6:19
「私たちはこの希望を、魂の錨として持っています。それは確実で、揺るぎないものです。」
考察: 「この希望」はアブラハムに対する神の約束に基づいています。「神は、ご自分よりすぐれた者を指して誓うことができなかった」ため、ご自身を指して誓われました(6:13-14)。神は誓いをもって約束を保証されました(6:17)。「それは、神が偽ることのできない二つの不変の事柄によって、前に置かれた希望を捕らえるために逃げて来た私たちが、力強い励みを得るためです」(6:18)。この錨は「幕の内側の奥聖所」にまで達しており、そこにはイエスが先駆けとして、また大祭司として入られました(6:20)。

ローマ人への手紙 8:28
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
考察: 「私たちは知っている」という言葉は章の結びへと続き、パウロはこう問いかけます。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(8:31)。続いて彼は「苦難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」を列挙し、「これらのすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者なのです」と述べています(8:35-37)。彼の確信は8:38-39に述べられています。「死も、いのちも……私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないと確信しているからです」。

エレミヤ書 29:11
「『わたしは、あなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ』と主は言われる。『それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』」
考察: 主は「私がエルサレムからバビロンへ移したすべての捕囚の民」に語りかけます(29:4)。その前の節は時期を定めています。「バビロンのために七十年が満ちたなら、私はあなたがたを顧みる」。それまで捕囚の民は家を建て、庭を作り、「その町の繁栄を求め」なければなりません(29:5-7)。約束は「私があなたがたを移したその場所」への帰還で締めくくられます(29:14)。

イザヤ書 40:31
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱らず、歩いても疲れない。」
考察: イスラエルは「私の道は主に隠れ、私の権利は私の神に見過ごされている」と不平を言いました(40:27)。答えは、主を「疲れることもなく、弱ることもない」方であり、「疲れた者に力を与える」方として描写しています(40:28-29)。主を待ち望む者は、30節の「つまずき、倒れる」若者たちと対比されています。

ローマ人への手紙 15:13
「どうか、希望に満ちた神が、信仰によって、あなたがたをすべての喜びと平和で満たし、聖霊の力によって、希望にあふれさせてくださいますように。」
考察: パウロは異邦人に関する4つの引用の連鎖を、イザヤの「彼に異邦人は望みをかける」という言葉で締めくくります(15:12)。続いて彼は神を「望みの神」と呼び、読者が「神を信じることによって」喜びと平和で満たされるようにと願います。望みのあふれることは「聖霊の力によって」起こります。
神に近づくことへの確信

ヘブライ人への手紙 4章16節
「ですから、私たちは憐れみを受け、また恵みをいただいて、恵みの御座に大胆に近づこうではありませんか。それは、助けが必要なときに、恵みを受けるためです。」
考察: 「ですから」は4:14-15の大祭司イエスを指しています。イエスは「私たちの弱さに同情できない方ではありません」。「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに遭われた」からです。確信をもって近づくことは、憐れみを受け、「恵みをいただくため」です。「助けが必要な時に」というギリシャ語は パレーシア, であり、ヘブル人への手紙10:35でも再び使われています。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません」。

ヨハネの手紙一 5章14節
「何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神は聞いてくださるということ。これこそ神に対する私たちの確信です。」
考察: ヨハネは「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを知るために」これを書くと述べたばかりであり(5:13)、その確信から祈りへと移ります。この確信には「神の御心にかなう願い」という独自の制限があり、15節は「私たちが願うことは何でも聞き入れてくださると知っている」と付け加えます。その言葉は パレーシア であり、ヨハネはこれを1ヨハネ3:21でも神の前での確信として使っています。

Ephesians 3:12
「私たちはこのキリストにあって、キリストを信じる信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができるのです」。
考察: 「このキリスト」とは、その前の節で名指されたキリスト・イエスです。「異邦人がイスラエルと共に相続人となる」という奥義(3:6)は、「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた永遠の計画」に従って明らかにされました(3:11)。ギリシャ語で「大胆さ」は パレーシア, であり、ストロングのギリシャ語辞典3954では「言論の自由、確信」と定義されています。また「確信」は ペポイテーシス, であり、ストロングのギリシャ語辞典4006では信頼と定義されています。自らを「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった」と呼ぶパウロは(3:1)、この節に続いて読者に「あなたがたのために受けている私の苦難のことで、がっかりしないでほしい」と願っています(3:13)。

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