聖書は、すべての人が命と息を神に依存していると述べています。パウロはアテネの評議会で、神は「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はない」のであり、「わたしたちは神のうちに生き、動き、存在する」と語りました(使徒言行録17章25、28節)。
聖書はその必要性を、神自身への渇き(詩編42編1-2節、詩編63編1節)、貧しさと弱さの自覚(マタイによる福音書5章3節、ローマの信徒への手紙7章18節、コリントの信徒への手紙二 12章9-10節)、疲れた者に与えられる力(イザヤ書40章29-31節)、そして天と地を造られた方からの助け(詩編121編1-2節)として表現しています。ヨハネによる福音書15章5節で、イエスは弟子たちに「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と語っています。
すべての人が神に依存していること

使徒言行録 17:28
「『わたしたちは神のうちに生き、動き、存在する』。あなたがたの詩人の何人かも、『わたしたちもその子孫である』と言ったように。」
考察: パウロはアテネのアレオパゴスでの集会で語っています。彼は街を歩いているときに「知られない神に」と刻まれた祭壇を見つけていました(23節)。その3節前で彼は、神は「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はない」のであり、「神自身がすべての人に命と息とすべてのものを与えておられる」と述べています。神のうちに生き、動くという言葉は、イスラエルの神を崇拝していなかった聴衆全体に適用されるものであり、彼はそれを彼ら自身の詩人の言葉を引用して裏付けています。

詩篇 127:1
「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の労苦はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」
考察: この詩編は、家を建てることや街を守ることといった日常の労働を挙げ、主が建て、主が見守らなければ、それらの努力は無駄になると述べています。次の節では、その教訓を日々の労働に当てはめています。「あなたがたが早く起き、遅くまで座し、苦労してパンを食べることも、むなしいこと。主は愛する者に眠りを与えてくださる。」

ヨハネの福音書 15章5節
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
考察: イエスは死の直前の夜、ぶどうの木とその枝のたとえを用いて、弟子たちにこう語られました。4節でも同じことが述べられています。「枝がぶどうの木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができません。」ここでの「何もできない」とは、弟子が結ぶべき実のことを指しており、6節では、つながっていない枝は投げ捨てられ、枯れてしまうと説明されています。
飢えと渇きとして表現される必要性

詩篇 42:1-2
「鹿が谷川を慕いあえぐように、神よ、わたしの魂はあなたを慕いあえぐ。わたしの魂は神を、生ける神を求めて渇く。いつ、わたしは行って、神の御顔を仰ぐことができるのか。」
考察: 詩人は神殿から離れた場所にいて、祭りの群衆を率いて「神の家」へ向かったことを思い出しています(4節)。その間、人々は一日中「お前の神はどこにいるのか」と彼をあざけります(3節)。彼が渇望しているのは神ご自身、「生ける神」であり、詩編は「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる」という言葉で、その絶望に答えています(5節)。

詩篇 63:1
「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求めます。水のない、乾ききった地で、わたしの魂はあなたを渇き求め、わたしの身も心もあなたを慕います。」
考察: 詩人は、水のない土地にいる体になぞらえて、神への必要性を表現しています。渇き、憧れ、そして「全存在」が切望しているのです。詩編の後半で、この渇きは満たされます。「私は最高の食物で満たされるように満ち足りる」(5節)、「私はあなたにすがりつき、あなたの右の手が私を支える」(8節)。

イザヤ書 55:1
「渇いている者は皆、水のところに来よ。金のない者も来よ。穀物を買って食べよ。来て、金を出さずに、代価を払わずに、ぶどう酒と乳を買え。」
考察: 神は市場の売り手のように呼びかけておられますが、買い手にお金は必要ありません。次の節では「なぜ、パンでもないもののために金を払い、満足させないもののために労するのか」と問いかけ、3節では実際に提供されているものをこう述べています。「耳を傾けて、私のところに来なさい。聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生きる。」

ヨハネによる福音書 6:35
「イエスは言われた。『わたしが命のパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも渇くことがありません。』」
考察: イエスがパンで群衆を満たした翌日、人々はイエスを追いかけ、先祖が荒野で食べたマナのようなしるしを求めました。イエスが「天からのまことのパン」について語ると、彼らは「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と答えました(34節)。この節はそれに対するイエスの答えであり、そのパンとはイエスご自身であり、イエスのもとに来て信じることによって受け取るものなのです。

マタイによる福音書 5:6
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
考察: 山上の垂訓の4番目の祝福は、義に対する飢え渇きを扱っています。イエスは、そのような人々は「満ち足りる」と約束されます。この節は、3節前の心の貧しい人々への祝福と同じリストの中にあります。
必要性を認めること

マタイによる福音書 5章3節
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」
考察: イエスは山上の垂訓をこの祝福で始められます。天の御国は、心の貧しい人々に現在形で約束されています。「彼らのもの」であると。次に続く祝福は「悲しむ人々」に向けられたものです。

ローマの信徒への手紙 7:18
「わたしの内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行することができないからです。」
考察: パウロは、善を行いたいと願いながらもそれができない自分について述べています。「私は自分のしたい善を行わず、かえってしたくない悪を行っている」(15節)。この箇所は、「私はなんと惨めな人間なのでしょう。だれがこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」という救いを求める叫びで終わり、それに対する答えとして「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します」と続きます(24-25節)。

箴言 3:5-6
「心を尽くして主に信頼せよ。自分の悟りに頼るな。あなたの行くすべての道で主を知れ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
考察: 父親が息子を教える中で、心を尽くして主を信頼するようにという呼びかけは、自分の知恵に頼ることへの警告を伴っています。7節ではその警告が繰り返されます。「自分を知恵のある者と思ってはならない。主を恐れ、悪から離れよ。」6節で約束されているまっすぐな道は、「すべての道」において神に従うことから生まれます。

ヤコブの手紙 4章8節
「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たちよ、手を洗いなさい。二心の人々よ、心を清めなさい。」
考察: ヤコブは、争いや喧嘩が満たされない欲望から生じている信徒たちに書き送っています。「あなたがたは、神に求めないので、持っていないのです」(2節)。彼は「神は高ぶる者を退け、謙遜な者に恵みを与える」と引用し(6節)、神に近づくようにという呼びかけを「主の御前で謙遜になりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」という言葉で締めくくっています(10節)。
自分の力が尽きた時の強さ

コリント人への手紙第二 12:9-10
「しかし、彼はこう言われました。『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのうちに完全に現れるからである。』ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから、私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
考察: パウロは、「肉体のとげ」を取り除いてほしいと三度主に願いました。それは彼が高慢にならないように与えられたものでした(7-8節)。その願いは拒絶され、主の答えがこの箇所の冒頭にあります。残りの部分は、その拒絶に対するパウロの応答であり、取り除いてほしいと願っていた弱さこそが、彼が誇るものとなったのです。

イザヤ書 40:29-31
「疲れた者に力を与え、勢いのない者に強さを増し加えられる。若者も疲れ、弱り、勇士もつまずき倒れる。しかし、主に望みをおく人は新たに力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱らず、歩いても疲れない。」
考察: イスラエルは「私の道は主から隠れている」と不平を言っていました(27節)。その答えは、神ご自身から始まります。神は「疲れず、弱ることのない方」(28節)であり、次に人々へと目を向けます。若く強い者でさえ疲れ果てるが、主を待ち望む者は力を新たにするのです。章の最後の行は、彼らが疲れ果てることなく走り、歩む姿を描いています。

詩編 73編26節
「肉体と心は衰え果てるかもしれませんが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしの分です。」
考察: 詩人は、神の聖所に入るまで、悪者の繁栄をうらやんでいました。この節の直前で彼はこう問いかけています。「天では、あなた以外にだれがいるでしょうか。地上では、あなた以外に私が望むものはありません」(25節)。体も心も衰えゆく中で、彼は神を「とこしえの分」と呼び、28節でこう締めくくっています。「神に近づくことは、私にとって幸いなのです。」

フィリピ人への手紙 4:13
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
考察: パウロはフィリピの教会から送られた贈り物に感謝し(18節)、満腹のときも空腹のときも、豊かさの中にいるときも乏しさの中にいるときも、満足することを学んだと伝えています(12節)。「すべて」とは、その状況の幅、つまり乏しいときも十分にあるときも両方を意味します。彼が述べている力とは、どちらの状態にあっても満足できる力のことです。
助けと避難所

詩編 121:1-2
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天と地を造られた主から来る。」
考察: 詩編は問いかけで始まり、誰が助けてくれるかを名指すことでそれに答えています。「天と地を造られた方」。続く節では、その助けを絶え間ない配慮として描写しています。まどろむことも眠ることもなく(4節)、あなたの「出入りを、今よりとこしえまで守られる」(8節)守り手なのです。

詩編 18:2
「主はわたしの岩、わたしの砦、わたしを救い出す方。わたしの神、わたしの岩、身を寄せる避難所。わたしの盾、救いの角、わたしの砦。」
考察: 詩篇の著者は、神を擁護者として表す名前を積み重ねています。岩、砦、救い主、盾、要塞です。詩篇は「主よ、私の力よ、私はあなたを愛します」と始まり、6節では死の縄目が彼を絡め取った時に何が起こったかが語られています。「苦難の中で私は主に呼びかけ、神に助けを求めて叫んだ。神は神殿から私の声を聞いてくださった。」

詩編 23編1-3節
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水辺に導き、わたしの魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、正しい道に導いてくださる。」
考察: 「私には何一つ欠けることがない」というのが、主を羊飼いとすることについて詩篇が最初に述べていることであり、続く行には羊飼いが与えてくれるものが列挙されています。休息、水、回復した魂、そして正しい道です。4節では、その配慮が「死の陰の谷」にまで及び、恐れる必要がない理由として「あなたが私と共におられるから」と述べられています。

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