神の善さに関する23の聖句

  • モーセが神の栄光を見たいと願ったとき、神は「わたしのすべてのいつくしみを、あなたの前に通り過ぎさせよう」(出エジプト記33:19)と答えられました。それに続く出エジプト記34:6の宣言は、詩篇103:8と詩篇145:8で繰り返され、ナホム書1:3でも響き渡っています。
  • 「主に感謝せよ。主はいつくしみ深い」という言葉は、詩篇106篇と136篇の冒頭にあり、契約の箱が天幕に安置されたときに歌われた感謝の賛歌(歴代誌第一16:34)にも現れます。詩篇136篇のすべての節は「そのいつくしみはとこしえまで」で終わります。
  • イエスは、自分を「良い先生」と呼ぶ人に対して、「神おひとりのほかには、良い者はだれもありません」(マルコ10:18)と答えられました。
  • ローマ2:4(「神の慈愛の豊かさ」)とテトス3:4は同じギリシャ語を使用しており、 クレステテス; ESV訳ではローマ人への手紙で「kindness(慈愛)」、テトスへの手紙で「goodness(いつくしみ)」と訳されていますが、欽定訳(KJV)ではその逆になっています。
  • 詩篇73篇は「神はイスラエルにいつくしみ深い」という言葉で始まり、悪人の繁栄をねたむ詩人の心境を記し、「神に近づくことは、私にとってしあわせです」という言葉で締めくくられています。

聖書は、神の存在そのものと、神が行われることの両方において、神をいつくしみ深いと呼んでいます。

「あなたはいつくしみ深く、いつくしみを行う方です」と詩篇119:68は述べています。モーセが神の栄光を見たいと願ったとき、神は「わたしのすべてのいつくしみを、あなたの前に通り過ぎさせよう」(出エジプト記33:19)と答えられました。イエスは、自分を「良い先生」と呼ぶ人に対して、「神おひとりのほかには、良い者はだれもありません」(マルコ10:18)と語り、イスラエルの礼拝では「主に感謝せよ。主はいつくしみ深い」(歴代誌第一16:34、詩篇106:1、詩篇136:1)という言葉が繰り返されます。

そのいつくしみは神が造られたすべてのものに及び(創世記1:31、詩篇145:9、使徒14:17)、赦しの中に現れ(詩篇86:5、詩篇103:8-10)、悔い改めに導くためのものです(ローマ2:4)。いくつかの詩篇では、苦難のただ中からそのいつくしみが語られており、詩篇27:13や詩篇73:1などがその例です。

神のいつくしみとは何か

Exodus 33:19

「わたしはわたしのすべてのいつくしみを、あなたの前に通り過ぎさせ、わたしの名『主』をあなたの前で宣言しよう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ。」

考察: モーセが「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(18節)と願ったのに対し、神はご自身のいつくしみを通り過ぎさせ、御名を宣言すると約束されました。次の章にはその宣言が記されています。「主、主、あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富む者」(出エジプト記34:6)。同じ宣言の中で、神は「決して罰せずにはおかない」とも言われています(出エジプト記34:7)。

詩編 119:68

「あなたは恵み深く、恵みを行う方。あなたの掟を私に教えてください。」

考察: 詩人は神の存在と神の御業を結びつけ、教えを請い求めています。「テト」で始まる節(65-72節)では、その教えが苦難と二度結びつけられています。「苦しみに会う前、私は迷いました。しかし今は、あなたの言葉を守ります」(67節)、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました」(71節)。

マルコによる福音書 10:18

「イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを良いと言うのですか。神おひとりのほかには、良い者はだれもありません。』」

考察: ある人が駆け寄ってひざまずき、「良い先生」に永遠の命を得るために何をすべきかを尋ねます。イエスはその呼びかけを問い直し、いつくしみは神のみにあることを示し、その人が幼い頃から守ってきたという戒めを挙げられます。会話は、その人が「多くの財産を持っていたので」(22節)、悲しみながら立ち去ることで終わります。

ヤコブの手紙 1:17

「すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであり、光の父から下って来るのです。父には、移ろいや変化の影が全くありません。」

考察: ヤコブは神を「光の父」と呼び、神には「移り変わりや、回転の影」がないと述べています。この節は「愛する兄弟たち。だまされてはいけません」(16節)という警告に続いています。次の節では、神が「ご自分の意志で」行われたこと、すなわち「真理の言葉によって、私たちを生んでくださった」ことが語られています。

造られたすべてのものに対するいつくしみ

創世記 1:31

「神は造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日である。」

考察: 創造の物語を通して、神はご自分が造られたものを見て「それは良かった」(4、10、12節)と見ておられます。6日目の終わり、すべての緑の草を人や動物の食物として与えた後(29-30節)、神はすべてを合わせて見て「非常に良かった」と言われました。

詩篇 145篇9節

「主はすべての人に良く、その憐れみは造られたすべてのものの上に及ぶ。」

考察: その前の節では、出エジプト記34:6の言葉が繰り返されています。「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かです」(8節)。続く9節では神のいつくしみが「すべての人」に及び、あわれみが「造られたすべてのもの」に及ぶことが述べられ、10節ではすべての御業が神に感謝を捧げると語られています。

Acts 14:17

「それでも、ご自分を証ししないでおられたわけではありません。天から雨を降らせ、実りの季節を与えて、食物と喜びであなたがたの心を満たし、恵みを与えてくださったのです。」

考察: バルナバとパウロは、自分たちを神として崇めようとする群衆の中で衣を引き裂き、人々に向かって「こうしたむなしいものから離れて、天と地と海とを造られた生ける神に立ち返るように」(15節)と告げました。神はこれまで諸国民がそれぞれの道を行くままにしておられましたが(16節)、雨や実りの季節、食物と喜びは、神が彼らに対してご自身を証しするものでした。

マタイによる福音書 7章11節

「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には良い贈り物を与えることを知っているのなら、なおのこと、天におられるあなたがたの父は、求める者に良いものを与えてくださらないことがあるだろうか。」

考察: イエスは、求めること、捜すこと、たたくことについての教え(7-8節)を、小さいことから大きいことへの論証で締めくくられます。息子にパンをねだられて石を渡す父親はいません。もし「悪い者」である父親であっても良い贈り物をするなら、天の父は「求める者に良いもの」を与えてくださるのです。

「主はいつくしみ深い」という感謝の賛歌

詩篇 136篇1節

「主に感謝せよ。主はいつくしみ深い。そのいつくしみはとこしえまで。」

考察: この詩篇の26の節はすべて「そのいつくしみはとこしえまで」で終わります。その間の節は、天と地と光の創造(5-9節)から、出エジプト、荒野、そして土地の贈与(10-22節)へと移り、最後は神が「すべての肉なるものに食物を与えられる」(25節)という言葉で締めくくられます。

詩篇 100:5

「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに、その真実は代々に及ぶ。」

考察: 詩篇100篇には「感謝の賛歌」という表題がついています。この詩篇は全地に対して、歌を歌って神の御前に進み、感謝をもってその門に入るよう呼びかけており、5節ではその理由を「なぜなら」という言葉で説明しています。主はいつくしみ深く、そのいつくしみはとこしえまで続き、その真実は「代々に」及ぶからです。

Psalm 106:1

「主をほめたたえよ!主に感謝せよ。主は恵み深く、その慈愛は永遠に続くからだ!」

考察: このリフレインは、「私たちも私たちの先祖も罪を犯した」(6節)と告白し、紅海から続くイスラエルの反逆を振り返る詩篇の冒頭です。その最初の行と結びの祈り(47-48節)は、神の箱が天幕に安置された後、ダビデがアサフとその兄弟たちに歌うよう命じた感謝の賛歌(歴代誌上16章1節、7節、34-36節)とほぼ同じ言葉で記されています。

詩編 34:8

「主の恵み深さを味わい、見よ。主に身を避ける人は幸いである。」

考察: 表題には、ダビデが「アビメレクの前で振る舞いを変えた」時にこの詩篇が作られたとあります。味わい、見るようにとの招きの前に、ダビデは自身の経験を語ります。「この貧しい者が叫んだとき、主は聞いてくださり、すべての苦難から救い出された」(6節)。10節には「主を求める者には、何一つ欠けるものはない」と付け加えられています。

悔い改めに導く赦しのいつくしみ

詩編 86:5

「主よ、あなたは恵み深く、赦す方。あなたを呼び求めるすべての人に、豊かな慈愛を注がれる方です。」

考察: 詩篇86篇には「ダビデの祈り」という表題があり、この節は神に向けられた言葉です。ダビデは自分が「貧しく、乏しい」(1節)ので聞いてほしいと願い、その根拠を神の性質、すなわち「あなたを呼び求めるすべての人」に対して善く、赦しに富み、不変の愛に満ちているという点に置いています。

Psalm 25:8

「主は恵み深く、正しい方。それゆえ、罪人に道を教えられる。」

考察: その前の節で、ダビデは「私の若い時の罪」を覚えないでほしいと神に願い、代わりに「主よ、あなたの慈しみのゆえに」自分を覚えてほしいと祈っています。8節は「それゆえ」という言葉で結論づけています。主は善く、まっすぐであるからこそ、罪人に道を教え、9節では謙遜な者を教えられると付け加えています。

Psalm 103:8-10

「主はあわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊か。主は絶えず争うことはなく、いつまでも怒ることもない。私たちの罪に従って私たちを扱うことはなく、私たちの咎に従って私たちに報いることもない。」

考察: 7節は神が「ご自分の道をモーセに知らせた」ことを思い起こさせ、8節は出エジプト記34章6節の言葉を繰り返しています。9-10節は、神の怒りには終わりがあり、罪に対して報いられることはないと述べています。11-12節は二つの尺度を示しています。神の不変の愛は天が地より高いほど大きく、背きを東が西から遠いほど遠ざけてくださるのです。

ローマ人への手紙 2:4

「それとも、神の親切があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな親切と寛容と忍耐を軽んじているのですか。」

考察: パウロは、同じことを行いながら他人を裁く人々に向けて語っています(1-3節)。そのような人は神の親切と忍耐を当然のことと考えていますが、これらは悔い改めに導くためのものです。5節は、頑なな心は「怒りの日に向かって、自分自身のために怒りを蓄えている」のだと警告しています。「神の親切の豊かさ」の背後にあるギリシャ語は、 クレステテス, 、テトスへの手紙3章4節でESVが「善さ(goodness)」と訳している言葉です。欽定訳聖書(KJV)ではこの二つが逆になっており、ここでは「神の善さの豊かさ」、テトス書では「私たちの救い主である神の親切と愛」と訳されています。

テトスへの手紙 3:4-5

「しかし、私たちの救い主である神の慈愛と人への愛が現れたとき、神は私たちを救われました。私たちが自分で行った義のわざによるのではなく、神の憐れみによって、聖霊による再生と更新の洗いを通して救われたのです。」

考察: パウロはまず、「私たち自身」もかつては「愚かで、不従順で、迷い、互いに憎み合っていた」と述べています(3節)。その後、神の善さと慈しみが「現れ」、彼らが行った行いではなく、神の憐れみによって彼らを救いました。7節はその目的を述べています。「それは、私たちが恵みによって義とされ、永遠の命という希望に従って相続人となるためです。」

神に身を寄せる者のためのいつくしみ

ナホム書 1:7

「主は恵み深く、苦難の日の砦。主はご自分を避難所とする者を知っておられる。」

考察: この節は、神の怒りを描写する言葉の間に置かれています。2-6節では神を「ねたみ、報復する方」と呼び、山々が神の前で震えると述べており、3節は出エジプト記34章6-7節を反映しています。「主は怒るのに遅く、力は偉大であり、主は決して罪ある者を罰せずにはおかない」。7節は神を善い方、神に避難する者を知る砦と呼び、8節は敵を滅ぼす洪水へと戻ります。

Psalm 31:19

「なんと豊かなことでしょう、あなたの恵みは。あなたはそれを、あなたを恐れる者のために蓄え、あなたに身を避ける者のために、人の子の前で成し遂げられました。」

考察: ここでの善さは、神を恐れる者のために「蓄えられ」、神に避難する者のために「行われる」ものであり、「人の子らの前で」示されます。ダビデは21-22節で自身の経験を語ります。包囲された町の中で彼は「私はあなたの目から断たれた」と言いましたが、神は彼の憐れみを求める叫びを聞き入れられました。

いつくしみが見えにくいとき

Psalm 73:1

「まことに神はイスラエルに、心の清い者に恵み深い。」

考察: アサフは最初の行で信条を述べ、続く二行で「悪者の繁栄を見て、高ぶる者をねたみ」(3節)、危うくつまずきそうになったことを認めています。それを理解しようとすることは「苦しい仕事であったが、神の聖所に入ったとき」(16-17節)に悟りました。詩篇は一人称で冒頭を言い直して終わります。「しかし、私にとっては、神に近いことが幸いなのです」(28節)。

詩編 27:13

「私は信じる。生きている者の地で、主の恵みを見ることを!」

考察: ダビデは「暴力を吐く」偽証人たちに引き渡さないよう求めてきました(12節)。彼は「生きている者の地」で主の善さを見ることを期待しており、次の節では聞く者にこう告げています。「主を待ち望め。雄々しくあれ。心を強くせよ。主を待ち望め。」

詩篇 23:6

「確かに、私の生きている限り、恵みと慈しみは私を追ってくる。私は主の家に、とこしえに住まう。」

考察: 羊飼いの詩篇は、善さと慈しみが一生涯、語り手に付き従うという言葉で終わります。その前の節では、語り手を「死の陰の谷」(4節)や「敵の前」で整えられた食卓(5節)に置いています。最後の行は未来を見据えています。「私はいつまでも主の家に住まうでしょう。」

ローマ人への手紙 8:28

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

考察: この節は、「何をどう祈るべきかを知らない」信者のために御霊が執り成してくださるというパウロの言葉に続いています(26節)。この約束は「神を愛する者」で「ご計画に従って召された者」に対してなされており、次の節ではその目的が「御子の姿にかたどられる」ことであると示されています。




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