聖書は、神が心の打ち砕かれた者のそばに留まり、彼らを癒されると述べています。詩篇34篇18節と詩篇147篇3節が直接的にそう語り、イザヤ書61章1-3節は、心の打ち砕かれた者を包帯で巻くことが、主が油注がれた者の務めの一部であると記しています。
聖書はまた、何が心を打ち砕くのかについても記しています。詩篇69篇20節は他者からの侮蔑を、詩篇27篇10節は父と母に見捨てられることを、詩篇41篇9節と詩篇55篇は親しい友の裏切りを挙げています。イザヤ書54章6節は「捨てられ、心に悲しみを持つ妻」について、ホセア書11章8節は背いた民に対して動揺する神ご自身の心について、そして詩篇51篇17節は自らの罪に打ち砕かれた心について語っています。
主は心の打ち砕かれた者に近く

詩編 34編18節
「主は打ち砕かれた心の人に近い。霊の砕かれた人を救われる。」
考察: この詩篇の表題は、ダビデが「アビメレクの前で態度を変え、追い出された」日の出来事と結びついています。心の打ち砕かれた者についての記述の二節後には、体に関する約束があります。「主は彼の骨をことごとく守られる。その一つも折られることはない」(詩篇34篇20節)。詩篇は「主のもとに身を避ける者はだれも罪に定められない」(詩篇34篇22節)という言葉で締めくくられています。

詩編 147編3節
「主は心砕かれた者を癒やし、その傷を包んでくださる。」
考察: 詩篇147篇は、人々だけでなく都市についても主を賛美しています。「主はあなたの城門の貫の木を強め、あなたの中の子供たちを祝福される。主はあなたの領土に平和を置き、最上の小麦であなたを満たされる」(詩篇147篇13-14節)。11節は主が何を大切にされるかを述べています。「主はご自身を恐れる者、ご自身の慈しみを待ち望む者を喜ばれる。」

イザヤ書 61:1-3
「主なる神の霊がわたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の打ち砕かれた者を包帯で巻き、捕らわれ人には解放を、つながれている者には釈放を告げ、主の恵みの年と、わたしたちの神の報復の日を告げ、悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに冠を、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの代わりに賛美の外套を授けるためである。彼らは『義の樫の木』、主が栄光を現すために植えられたものと呼ばれるようになる。」
考察: この章の後半では、約束は恥から転換します。「あなたがたは恥を受けた代わりに、二倍の報いを受け、侮辱を受けた代わりに、自分たちの分け前を喜ぶ。それゆえ、彼らは自分たちの地で二倍のものを所有し、永遠の喜びを得る」(イザヤ書61章7節)。次の節ではその理由と約束が与えられています。「わたし主は公平を愛し、略奪と不正を憎むからである。わたしは真実をもって彼らに報い、彼らと永遠の契約を結ぶ」(イザヤ書61章8節)。
他者によって打ち砕かれた心

詩編 69:20
「そしりはわたしの心を打ち砕き、わたしは絶望に陥りました。わたしは同情を求めましたが、だれもいませんでした。慰める者を求めましたが、見つけることができませんでした。」
考察: 「ダビデの詩」と題されたこの詩篇は、溺れゆく人の描写で始まります。「水はわたしののどにまで達しました」(詩篇69篇1節)。ここで打ち砕かれた心の原因はそしり、つまり他者からの侮蔑であり、慰めてくれる人がいないことでその痛みはさらに増しています。哀歌1章2節も、滅亡後のエルサレムについて同じ嘆きを述べています。「彼女を慰める者はだれもいない。」

詩篇 27章10節
「わたしの父と母がわたしを捨てても、主はわたしを引き受けてくださる。」
考察: ダビデは神に御顔を隠したり、自分を退けたりしないよう求めています。「わたしを捨てないでください。わたしの救いの神よ、わたしを見捨てないでください!」(詩篇27篇9節)。二節後、彼は他の敵として「暴力を吐く」「偽りの証人」を挙げています(詩篇27篇12節)。詩篇は、主を待ち望む間、心に勇気を持つようにと告げて終わります(詩篇27篇14節)。

詩篇 41:9
「わたしの信頼していた親しい友、パンを食べていた者が、わたしに背を向けた。」
考察: ダビデは病に伏しており、敵は「いつになったら彼は死に、その名が滅びるのか」と尋ねます(詩篇41篇5節)。見舞いに来る者は空しい言葉を語り、外で噂を広めます。そして「わたしのパンを食べていた」親しい友がやって来ます。弟子たちとの食事の席で、イエスはこの言葉を、ご自身を裏切る者について引用されました(ヨハネ13章18節)。

詩篇 55:22
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえてくださる。主は正しい者が揺り動かされることを、いつまでも許されない。」
考察: 詩篇55篇でダビデが主に委ねる重荷は裏切りです。「わたしをそしるのは敵ではない」が、「わたしの仲間、親しい友人」である(詩篇55篇12-13節)、かつて神の家で共に歩んだ者です。その前段で彼は「わたしの心は内で苦しみ、死の恐怖がわたしを襲う」(詩篇55篇4節)と述べています。この節の直前では、友の言葉が「油よりも滑らかだが、実は抜かれた剣である」と描写されています。

詩篇 62:8
「民よ、どんなときにも神を信頼せよ。御前に心を注ぎ出せ。神は我らの避難所である。」
考察: 詩篇62篇でダビデを悩ませる人々は二枚舌です。「彼らは口では祝福するが、心の中では呪っている」(詩篇62篇4節)。彼は自分の魂に、静かに神を待ち望むよう言い聞かせ(詩篇62篇5節)、次に人々に向かって、神を信頼し、神の前に心を注ぎ出すようにと語ります。「神はわたしたちの避け所」だからです。
捨てられ、再び集められる神の民

Isaiah 54:6
「主はあなたを、捨てられ、心に悲しみを持つ妻として、また若い時に捨てられた妻として呼ばれたからである、とあなたの神は言われる。」
考察: 主はシオンに妻として語りかけます。「あなたを造った方は、あなたの夫」(イザヤ書54章5節)。彼女は捨てられた若い妻として描かれ、この節の周辺では彼女の恥と「やもめとしてのそしり」が記されています(イザヤ書54章4節)。次の節で答えが与えられます。「ほんのしばらくの間、わたしはあなたを捨てたが、大きな憐れみをもってあなたを集める」(イザヤ書54章7節)。

エレミヤ書 30:17
「わたしはあなたを回復させ、あなたの傷を癒す、と主は言われる。彼らがあなたを『追放者』と呼び、『だれも顧みないシオンだ』と言ったからである。」
考察: この章の冒頭で、主はシオンに対し、打撃を与えたのはご自身であると告げられます。「あなたの罪が重いので、わたしは敵の打撃をもって、残酷な者の懲らしめをもってあなたを打った」(エレミヤ書30章14節)。同じ節で彼女の愛人たちは彼女を忘れたとあり、13節には「あなたの傷を癒す薬はない」とあります。ここで傷を与えた主が、他者がシオンを「だれも顧みない追放者」と呼んだために、その傷を癒すと約束されています。

Hosea 11:8
「エフライムよ、どうしてあなたを見捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを引き渡すことができようか。どうしてあなたをアドマのようにし、ツボイムのように扱うことができようか。わたしの心は内で動揺し、憐れみが熱くこみ上げている。」
考察: ホセア書11章はイスラエルを子供として描いています。「イスラエルが幼かったとき、わたしは彼を愛し、エジプトからわが子を呼び出した」(ホセア書11章1節)。主はエフライムに歩き方を教えましたが、「彼らは呼ばれれば呼ばれるほど、ますます離れていった」(ホセア書11章2節)。この節で動揺する心は神ご自身の心であり、章は約束で締めくくられます。「わたしは彼らをその家々に帰らせる、と主は言われる」(ホセア書11章11節)。
打ち砕かれた霊

箴言 15:13
「陽気な心は顔を輝かせ、心に悩みがあると霊は打ち砕かれる。」
考察: 喜びの心は顔に表れますが、心の悲しみは霊に達し、それを打ち砕きます。詩篇34篇18節は、主が救われる人々について、同じ「打ち砕かれた霊」という表現を用いています。

箴言 18:14
「人の霊は病を耐え忍ぶが、打ち砕かれた霊をだれが耐えられようか。」
考察: この格言は、体の病と打ち砕かれた霊を並べています。前者は人が耐えられるものですが、後者についてこの節は「だれが耐えられようか」と問いかけ、答えを出しません。

詩篇 51:17
「神へのいけにえは、砕かれた霊。神よ。あなたは砕かれた悔いた心をさげすまれません。」
考察: 詩篇51篇の表題は、預言者ナタンがバテ・シェバの件でダビデを責めた後の出来事としています。ここで打ち砕かれた心は過ちを犯した者のものであり、ダビデは神がそれを焼き尽くす献げ物よりも尊ばれると述べています(詩篇51:16)。
声に出された悲しみ

Matthew 26:38
「わたしは死ぬほど悲しい。ここを離れないで、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
考察: ゲツセマネでイエスはペトロとゼベダイの二人の息子を連れて行き、「悲しみもだえ始め」ました(マタイ26:37)。そして、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)と祈られました。三度戻って弟子たちが眠っているのを見つけ、「あなたがたは、わたしと一緒に一時間も目を覚ましていることができなかったのか」(マタイ26:40)と言われました。

詩篇 42篇11節
「わが魂よ、なぜうなだれるのか。なぜ私の中で騒ぎ立てるのか。神を待ち望め。私は再び彼をほめたたえるだろう。私の救い、私の神を。」
考察: この詩篇にはコラの子のマスキールという表題がついています。語り手は、かつて祭りの群衆を率いて神の家へ向かったこと(詩篇42:4)を思い出し、今は「ヨルダンとヘルモンの地から」(詩篇42:6)神を思い出しています。その間、人々は「お前の神はどこにいるのか」と嘲ります。「わが魂よ、なぜうなだれるのか」という問いは5節と11節にあり、どちらも彼は自分自身の魂に対して「神を待ち望め」と答えています。

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