聖書において、悔い改めとは罪から神へと立ち返ることであり、それは人の生き方に表れます。イエスはガリラヤでの説教を「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という言葉で始め、エゼキエルはイスラエルに「立ち返れ」と呼びかけて生きるように促し(エゼキエル33:11)、ダビデは神が「砕かれた悔いた心」を軽んじられないと言っています(詩編51:17)。
新約聖書の動詞は メタノエオ, 。ストロングの語彙集では「考えや目的を変えること」と定義されています。新約聖書では、その変化を行動で示すよう求めており(ルカ3:8-9、使徒26:19-20)、群衆だけでなく教会に対しても語りかけ(黙示録2:5、3:19)、一人の罪人が悔い改める時に天に喜びがあることを描写しています(ルカ15:7)。
悔い改めよという命令

Mark 1:15
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
考察: マルコは、バプテスマのヨハネが捕らえられた後、イエスがガリラヤに来て宣べ伝えたメッセージとしてこれを記しています(マルコ1:14)。悔い改めへの呼びかけには根拠があります。時は満ち、神の国が近づいたからです。その傍らには、「福音を信じなさい」という第二の命令があります。

ルカによる福音書13章3節
「決してそうではありません。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びます。」
考察: 人々は、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの犠牲に混ぜたという話をイエスに伝えました。イエスは、彼らが他の人より罪深かったから苦しんだという考えを否定し、シロアムの塔が倒れて死んだ18人についても同様であると述べています(ルカ13:4-5)。どちらの場合も、イエスは問いを聴衆に投げ返しており、その後に続くたとえ話は、3年間実を結ばず、切り倒される前にあと1年与えられたイチジクの木の話です(ルカ13:6-9)。

使徒言行録 17:30
「神はこのような無知の時代を大目に見られましたが、今はどこにいる人にも悔い改めるよう命じておられます。」
考察: パウロは、「偶像で満ちている」と見たアテネの町で語っており(使徒17:16)、神聖な存在は金や銀や石の像のようなものではないと述べた直後です(使徒17:29)。彼は、神は無知の時代を見過ごされたが、今はどこにいるすべての人に悔い改めるよう命じておられると語ります。次の節にはその理由が記されています。神は、任命した人によって世界を裁く日を定めており、その人を死者の中からよみがえらせたからです。

ルカによる福音書 24:47
「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に、その名によって宣べ伝えられるべきことも(書かれている)。」
考察: 復活したイエスは、弟子たちの心を開いて聖書を理解させた後、これらの言葉を語られました(ルカ24:45)。イエスは、罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝えることを、ご自身の苦難と復活と並べて、「書かれている」通りに起こらなければならないこととして位置づけています。それはエルサレムから始まり、すべての国々に及ぶべきものであり、弟子たちは「あなたがたはこれらのことの証人です」と告げられています(ルカ24:48)。
なぜ神は人々に悔い改めを求めるのか

Ezekiel 33:11
「彼らに言え。主なる神は言われる。わたしは生きている。わたしは悪人が死ぬことを喜ぶだろうか。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち返れ。あなたがたの悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。どうしてあなたがたは死のうとするのか。」
考察: イスラエルの家は、「私たちの背きと罪が私たちの上にあり、私たちはそのために朽ち果てていく。どうして生きることができようか」と言っていました(エゼキエル33:10)。この節は、ご自身の命にかけて誓われた神の答えです。神は悪人が死ぬことを喜ばず、彼らが立ち返って生きることを望んでおられます。エゼキエル18:32も同様に述べています。「主なる神は言われる。わたしは誰が死ぬことも喜ばない。だから、立ち返って生きよ。」

ペテロの手紙二 3章9節
「主は、ある人たちが遅いと思っているように、約束を遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
考察: ペテロは「愛する者たち」に向けて、「主が来られるという約束はどこにあるのか」と問う嘲る者たちについて書いています(ペテロ二3:3-4)。彼はこの遅れを、読者に対する神の忍耐であると呼んでいます。神は一人も滅びることを望まず、すべての人に悔い改めに至ることを望んでおられるからです。その前の節には、主のもとでは一日は千年のようであるとあり、次の節には、主の日は盗人のようにやって来ると記されています。

ローマ人への手紙 2:4
「それとも、神の親切があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな親切と寛容と忍耐を軽んじているのですか。」
考察: パウロは、自分自身も犯している罪で他人を裁く者に向けて語っています(ローマ2:3)。神の慈愛、寛容、忍耐は、その人を悔い改めに導くためのものであり、それを許しとみなすことは神を侮ることになります。次の節では、拒絶した結果が記されています。「頑なで悔い改めない心」が、裁きの日に対する怒りを積み上げているのです。

Luke 5:32
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」
考察: イエスは、取税人レビの家での宴席で、パリサイ人や律法学者が、イエスが取税人や罪人と食事をしていると不平を言った後にこう語りました。その前の節で、イエスはご自身を医者に例え、健康な人ではなく病人にこそ医者が必要であると述べています。イエスはご自身の目的を、罪人を悔い改めに招くことであると説明しています。
神に立ち返り、赦されること

詩篇 51:17
「神へのいけにえは、砕かれた霊。神よ。あなたは砕かれた悔いた心をさげすまれません。」
考察: 詩篇51篇の表題は、預言者ナタンがバテ・シェバの件でダビデを問い詰めた後の出来事を示しています。ダビデは、神は犠牲を喜ばず、焼き尽くす献げ物も望まれないと述べています(詩篇51:16)。神が代わりに受け入れられるのは、砕かれた霊と悔いる心です。同じ祈りの前の部分で、ダビデは「神よ、私に清い心を造ってください」と求めています(詩篇51:10)。

Joel 2:12-13
「『しかし今でも』と主は言われる。『心を尽くして、断食と泣き悲しみと嘆きをもって、私に立ち返れ。衣ではなく、心を引き裂け。』あなたがたの神、主のもとに立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、豊かな慈愛があり、わざわいを思い直してくださるからだ。」
考察: ヨエルは、イナゴの災いによって土地が荒らされた後、民を神のもとへ呼び戻しています(ヨエル1:4)。主は、断食と泣き悲しみと嘆きをもって立ち返り、衣ではなく心を裂くように求めています。立ち返る理由は、出エジプト記34:6の言葉に描写されている神の性質にあり、次の節では結果が委ねられています。「神が立ち返り、思い直してくださるかどうか、誰が知ろうか。」

歴代誌下 7章14節
「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、謙遜になり、祈り、わたしの顔を求め、その悪の道から立ち返るなら、わたしは天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」
考察: 神は神殿の奉献の後、夜にソロモンの祈りに答えて、ソロモンにこれらの言葉を語られました。その前の節には、干ばつ、イナゴ、疫病が土地に送られるという状況が挙げられています。この約束には条件があり、それには悪の道から立ち返ることが含まれており、「わたしの名で呼ばれるわたしの民」に対してなされたものです。

使徒言行録 2:38
「ペテロは彼らに言った。『悔い改めなさい。そして、罪の赦しを得るために、それぞれイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。』」
考察: ペンテコステの群衆は、自分たちが神によって主とキリストにされた方を十字架につけたというペテロの言葉を聞き、「心を刺され」、どうすべきかを尋ねました(使徒2:37)。ペテロは彼らに悔い改め、「罪の赦し」のためにバプテスマを受けるように告げ、「聖霊の賜物を受ける」と言いました。次の節ではこれを「約束」と呼び、彼らの子供たちや「遠くにいるすべての人々」にまで及ぶものとしています。41節には、その日におよそ3000人がバプテスマを受けたと記されています。

Acts 3:19-21
「それゆえ、悔い改めて、立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られ、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめ定められたキリストであるイエスが遣わされるでしょう。このイエスは、神が昔から聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が回復される時まで、天にとどまらなければなりません。」
考察: ペテロは、生まれつき足の不自由な人が「美しの門」で癒やされた後、神殿でこう語りました(使徒3:1-10)。彼は群衆に対し、彼らとその指導者たちが無知のうちに行ったことだと告げ(使徒3:17)、悔い改めて立ち返るよう呼びかけました。一つの文の中に、罪がぬぐい去られること、主からの回復の時が来ること、そして万物が回復される時まで天にとどまるイエスが遣わされることという、3つの結果が続いています。

ヨハネの手紙一 1章9節
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。」
考察: ヨハネは信者たちに向けて手紙を書いており、その前後の節は、自分には罪がないと主張する人々への答えとなっています。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分を欺いているのです」(ヨハネの手紙一 1:8)。罪を告白することは、その否定に対抗するものとして示されています。赦しは神が「真実で正しい」方であることに基づいており、その節は罪の赦しだけでなく、すべての不義からの清めも約束しています。
悔い改めがもたらすもの

Luke 3:8-9
「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『自分たちにはアブラハムが父としてついている』などと言い始めてはいけません。言っておくが、神はこれらの石からでも、アブラハムの子を起こすことができるのです。斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれます。」
考察: 洗礼者ヨハネは、バプテスマを受けるために出てきた群衆にこう言いました。アブラハムの子孫であることは彼らを守るものではなく、斧はすでに木の根元に置かれています。群衆がどうすべきかを尋ねると、彼の答えは具体的でした。下着や食べ物を分け合うこと、決められた以上の税を取り立てないこと、そして恐喝して金銭を奪わないことです(ルカ3:10-14)。

Acts 26:19-20
「ですから、アグリッパ王よ、私は天からの幻に逆らわず、まずダマスコの人々に、それからエルサレム、ユダヤの全地方、さらには異邦人たちに、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えました。」
考察: パウロはアグリッパ王の前で弁明し、ダマスコへの道での幻の後に何をしたかを説明しています。彼はダマスコ、エルサレム、ユダヤ、そして異邦人たちに対して同じメッセージを宣べ伝えました。そのメッセージには、悔い改めること、神に立ち返ること、そしてその悔い改めにふさわしい行いをすることという3つの要素があります。

コリントの信徒への手紙二 7章10節
「神の御心に適った悲しみは、悔い改めを導いて救いに至らせ、後悔させることはありません。ところが、世の悲しみは死をもたらします。」
考察: パウロはコリントの教会に彼らを悲しませる手紙を送りましたが、その悲しみが彼らを悔い改めに導いたため、後悔はしていないと言っています(コリントの手紙二 7:8-9)。彼は悔い改めと救いをもたらす神のみこころにかなった悲しみと、死をもたらす世の悲しみを対比させています。次の節では、神のみこころにかなった悲しみが彼らにもたらしたものとして、熱心さ、身の潔白を証明しようとする意欲、憤り、恐れ、慕う心、熱意、処罰が挙げられています。
罪人が悔い改めるときの喜び

ルカによる福音書 15:7
「言っておくが、それと同じように、悔い改める一人の罪人については、悔い改めの必要のない九十九人の正しい人についてよりも、天では大きな喜びがある。」
考察: イエスは、「この人は罪人たちを迎えて、一緒に食事をしている」とつぶやくパリサイ人や律法学者たちに、失われた羊のたとえを語ります(ルカ15:2)。羊飼いは99匹を置いて1匹を見つけ出し、近所の人々を呼んで喜びを分かち合います。その後に続く失われた銀貨のたとえも同じ結末を迎えます。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです」(ルカ15:10)。
教会に対する悔い改め

Revelation 2:5
「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、最初の行いをしなさい。もしそうでなければ、わたしは行って、悔い改めない限り、あなたの燭台をその場所から移してしまおう。」
考察: 復活されたキリストはエペソの教会に語りかけます。その働きと忍耐を称賛した直後、一つだけ責めるべきことがあると言います。それは、彼らが最初の愛を捨ててしまったことです(黙示録2:4)。指示には、思い出すこと、悔い改めること、そして最初に行っていた行いを行うことという3つの段階があります。警告は、教会の燭台を取り除くというものです。

黙示録 3:19
「わたしは愛する者を皆、叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になりなさい。悔い改めなさい。」
考察: これはラオデキヤの教会に向けられた言葉です。彼らは「私は富んでいる。豊かになった。何一つ不自由なことはない」と言っていました(黙示録3:17)。叱責と懲らしめは愛のしるしとして提示され、教会は熱心になり、悔い改めるように言われます。次の節は「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている」と続きます。

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