聖書において、永遠の命とは神が御子を通して与える命です。イエスはそれを、父と神が遣わされた方を知ることであると定義しています(ヨハネ17:3)。ヨハネによる福音書は、すでにそれを持っている信者について語っています(ヨハネ5:24)。一方、ダニエル書12章2節とマタイによる福音書25章46節は、死者が復活し裁かれた後の永遠の命について語っています。
パウロは永遠の命を賜物(ローマ6:23)であり、神が「永遠の昔に」約束された希望(テトス1:2)であると呼んでいます。また、彼の書簡は信者たちに、それをしっかりとらえること(テモテ一6:12)、そしてあきらめずに御霊のために種を蒔き続けること(ガラテヤ6:8-9)を勧めています。
永遠の命とは何か、そして誰がそれを与えるのか

ヨハネによる福音書3章16節
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
考察: ニコデモとの対話の中で、イエスはモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならないと語った直後に、「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を持つためである」と述べています(ヨハネ3:14-15)。16節はその理由を説明しています。神は世界を愛し、独り子を与えられたのです。永遠の命の対極にあるのは滅びであり、18節は「信じない者はすでに裁かれている」と付け加えています。

ヨハネによる福音書 17章3節
「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
考察: イエスは最後の説教の終わり、ヨハネ18章で捕らえられる直前に、父に向かってこれらの言葉を祈っています。2節には、父が御子に「神が与えたすべての人に永遠の命を与える」権威を与えたとあります。3節は、その賜物が何であるか、すなわち唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることであると述べています。

ヨハネ14:6
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしを通らなければ、父のもとに行くことはできない。』」
考察: イエスは弟子たちに、父の家で彼らのために場所を用意し、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と語ったばかりです(14:2-3)。トマスが道を知らないと言うと、イエスはご自身が道であり、真理であり、命であると答えます。この節は、この章で述べられている目的地である父のもとに、人がどのようにして到達するかという問いに答えています。

ローマ人への手紙 6章23節
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
考察: この節は、罪の奴隷か神の奴隷かというローマ人への手紙6章におけるパウロの議論を締めくくるものです。22節では、罪から解放された者にとって、その実は「聖められ、その行き着く所は永遠の命である」とすでに述べられています。23節は報いと賜物を対比させています。罪は死をもたらしますが、永遠の命は「私たちの主キリスト・イエスにある」賜物として無償で与えられるのです。
すでに始まっている命

ヨハネによる福音書 5章24節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移ったのです。」
考察: イエスは永遠の命を、信者がすでに保持しているものとして語ります。聞く者は「永遠の命を持ち」、「死から命に移った」のです。続く節では、死者が御子の声を聞いて生きる「今がその時である」時(5:25)と、「墓の中にいるすべての者」が出てきて、ある者は「命の復活」へと向かう(5:28-29)未来の時について語られています。この章には、現在の賜物と未来の復活の両方が含まれています。

ヨハネによる福音書 11章25-26節
「イエスは彼女に言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」
考察: ラザロは墓に葬られて4日経っていました(11:17)。姉妹のマルタは、彼が「終わりの日の復活の時に復活すること」を知っているとイエスに告げました(11:24)。イエスはご自身について語ることで答えました。「わたしは復活であり、命である」。イエスは二つの約束をします。死ぬ信者に対するもの(「生きる」)と、生きている信者に対するもの(「決して死なない」)です。マルタは彼がキリストであるという告白で答え(11:27)、その後イエスはラザロを墓から呼び出しました(11:43-44)。

ヨハネによる福音書 4:14
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
考察: イエスは、「私たちの父ヤコブ」が与えた井戸(4:12)で水を汲みに来たサマリアの女と話しています。イエスは、「この水を飲む者はだれでも、また渇く」という井戸の水(4:13)と、飲む者の内で泉となる水とを対比させます。女は最初、それを普通の水のことだと解釈し、「汲みに来る必要がないように」それを求めています(4:15)。

ヨハネによる福音書 6:27
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでも残って永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたたちに与える食べ物である。父である神は、人の子にその証印を押されたからである。」
考察: イエスは自分を探しに来た人々に、「あなたがたがわたしを捜しているのは、パンを食べて満腹したからだ」と告げます(6:26)。イエスは、滅びる食べ物と、人の子が与える「永遠の命に至るまで残る」食べ物とを対比させます。神が求める働きは何かと問われると、イエスは「神が遣わされた者を信じることである」と答え(6:29)、章の後半では「信じる者は永遠の命を持っている」と述べています(6:47)。

ヨハネの手紙一 3:14-15
「わたしたちは、兄弟を愛しているから、死から命へと移ったことを知っています。愛さない者は、死にとどまっています。兄弟を憎む者は皆、人を殺す者です。人を殺す者はだれも、その内に永遠の命を宿していないことを、あなたがたは知っています。」
考察: ヨハネは信者に確信の根拠を与えています。仲間の信者を愛することは、彼らが死から命に移ったことを「私たちが知る」方法であり、ヨハネ5章24節に近い表現です。12節では、「悪しき者から出て、自分の兄弟を殺した」カインの名が挙げられたばかりです。15節は、兄弟を憎む者はだれでも人殺しであり、人殺しには永遠の命が「とどまっていない」と述べています。
復活、裁き、そして来たるべき世

ダニエル書 12:2
「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠の命に、ある者は恥と永遠の忌みに。」
考察: この節は、「かつてないほどの苦難の時」に、ダニエルの民のうち「書物に名が記されている者はみな」救い出されるという約束に続いています(12:1)。死者は塵の中で眠り、永遠の命か永遠の恥のどちらかへと目覚める者として描かれています。3節は、賢い者たちが「大空の輝きのように輝く」と続けています。

マタイによる福音書 25章46節
「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい者たちは永遠の命にあずかるのである。」
考察: この節は、人の子が「すべての国の人々」を集め、「羊飼いが羊と山羊を分けるように」彼らを分ける場面を締めくくっています(25:32)。この分け隔ては、飢えた人、旅人、病気の人、囚人に対して各グループがどのように接したかによって決まり、王はそれを「わたしにした」とみなします(25:40, 45)。この節では、「永遠」という同じ言葉が、罰と命の両方を表しています。

マルコによる福音書 10章30節
「百倍もの報いを受ける。すなわち、今の世では家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を迫害と共に受け、後の世では永遠の命を受ける。」
考察: 物語は、ある男がイエスに「善い先生、永遠の命を相続するためには、何をすればよいでしょうか」と尋ねるところから始まります(10:17)。持ち物を売って従うように言われた彼は、悲しみながら立ち去ります。ペテロが弟子たちはすべてを捨てたと述べると(10:28)、イエスは二段階で答えます。迫害を伴う「今のこの時に」百倍の報いがあり、「来たるべき世」には永遠の命があるというものです。永遠と訳されるギリシャ語の形容詞は、 アイオーニオス, は、 アイオーン, 、時代。マタイによる福音書19章29節にも同じ言葉が記録されています。

ペテロの手紙一 1:3-5
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きな憐れみによって、イエス・キリストが死者の中から復活されたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐ者としてくださいました。これはあなたがたのために天に蓄えられているものです。あなたがたは、神の力によって、信仰を通して守られており、終わりの時に現れるように用意されている救いを受けるのです。」
考察: ペテロは、ポント、ガラテヤ、カッパドキヤ、アシア、ビテニヤに散らされた「選ばれた寄留者」たちに手紙を書いています(1:1)。彼は彼らの希望をイエスの復活に結びつけ、彼らの受け継ぐ財産を「朽ちず、汚れず、しぼまない」という3つの否定的な言葉で表現しています。その財産は天に蓄えられており、信者自身も、やがて現される救いのために神の力によって守られています。
約束され、守られ、知られるもの

テトス 1:2-3
「偽ることのない神が、永遠の命の望みをもって、約束されたものです。この約束は、永遠の昔になされたものであり、」
考察: パウロはテトスへの手紙の冒頭で、自身の使徒職を「永遠の命の望み」と結びつけています。彼はその約束が時が始まる前になされたとし、それを「偽ることのない」神の性質に基づかせています。当時約束されたことは、後に、神が定められた時に、パウロに委ねられた宣教を通して明らかにされました。

テトスへの手紙 3:7
「それは、私たちが主の恵みによって義と認められ、永遠のいのちという望みに従って相続人となるためです。」
考察: ESV訳では、4節から7節までが一つの文章を構成しています。神は「私たちの行った義のわざによってではなく、ご自分の憐れみによって」、「聖霊による再生と更新の洗い」を通して救ってくださいました(3:5)。この文章は、その救いの目的で締めくくられています。すなわち、神の恵みによって義とされた者たちが相続人となり、永遠の命を相続するということです。

ヨハネの手紙一 2章25節
「神が私たちに約束された約束はこれです。すなわち、永遠の命です。」
考察: ヨハネは読者に対し、「初めから聞いていたこと」を心にとどめ、「御子と父のうちにとどまる」ように勧めた直後です(2:24)。そのとどまることに対して与えられる約束が、永遠の命です。

ヨハネによる福音書 10:28
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
考察: イエスは、ご自分の「声を聞き」、「私に従う」羊たちについて語っておられます(10:27)。その約束には3つの要素があります。イエスは彼らに永遠の命を与え、彼らは決して滅びず、だれも彼らをイエスの手から奪い去ることはできないということです。29節では、御子の手に加えて父の手についても言及されています。この章の初めの方では、雇い人が逃げ出すときに羊を「奪い去る」のは狼であるとされています(10:12)。

ヨハネの手紙一 5章13節
「私がこれらのことを書いたのは、神の御子を信じているあなたがたに、自分には永遠の命があることを知らせるためです。」
考察: ヨハネは、この手紙を書いた理由を、「あなたがたが永遠の命を持っていることを知るため」であると述べています。その前の節では、その命をある人物と結びつけています。「この命は御子のうちにある。御子を持つ者は命を持っており」(5:11-12)。12節ではその逆も述べています。「神の御子を持たない者は命を持っていない。」
恵み、信仰、そしてそれを追い求める命

ローマの信徒への手紙 5:21
「それは、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くためです。」
考察: この節は、ローマ人への手紙5章の締めくくりとして、二つの支配を対比させています。罪は「死」において支配し、恵みは「義」を通して永遠の命へと支配します。20節では、律法が「罪を増し加えるために」入り込み、罪が増したところには「恵みが満ちあふれた」と述べられています。

ローマ人への手紙 2章7節
「絶えず善い行いをして、栄光と誉れと朽ちないものとを求めている者には、永遠の命を与えられます。」
考察: この節は、神が「それぞれその行いに応じて報いられる」(2:6)こと、そしてユダヤ人とギリシャ人の間に「偏りがない」(2:11)というパウロの主張の一部です。永遠の命は、「忍耐強く善を行って」栄光と誉れと不朽を求める者に与えられます。次の節ではその反対のケース、すなわち「真理に従わず、不義に従う」者に対する怒りと憤りについて述べています(2:8)。

ガラテヤの信徒への手紙 6:8
「自分の肉のために種を蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊のために種を蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」
考察: パウロは農業の原則を適用しています。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる」(6:7)。肉のために蒔けば滅びを刈り取り、御霊のために蒔けば永遠の命を刈り取ります。次の節では、その収穫を「時が来れば」とし、「あきらめずにいれば」という条件を加えています(6:9)。

テモテへの手紙一 6:12
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を得るために戦いなさい。あなたはそのために召され、多くの証人の前で立派に信仰を告白したのです。」
考察: パウロは「神の人」と呼ぶテモテに対し、「これらのこと」から逃れ、義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めるように命じています(6:11)。テモテはすでに永遠の命へと召されており、それをしっかりと握るように言われています。多くの証人の前での彼の「良い告白」は、キリストが「ポンテオ・ピラトの前で」なされた良い告白と並べて語られています(6:13)。

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